『不動智神妙録』から学ぶ(Part 11)
「求放心」

 さて、今日は「不動智神妙録」の十一番目の項目にある、求放心を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。

  • 求放心 
     求放心と申すは、孟子が申したるにて候。放れたる心を尋ね求めて、我身へ返せと申す心にて候。 たとへば、犬猫鶏など放れて余所へ行けば、
    尋ね求めて我家に返す如く、心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを、何とて求めて返さぬぞと也。尤も斯くあるべき義なり。 然るに又邵康節と云ふものは、心要放と申し候。はらりと替り申し候。
     斯く申したる心持は、心を執らへつめて置いては労れ、猫のやうにて、身が働かれねば、物に心が止らず、染ぬやうに能く使ひなして、捨置いて何所へなりとも追放せと云ふ義なり。

     物に心が染み止るによつて、染すな止らすな、我身へ求め返せと云ふは、初心稽古の位なり。蓮の泥に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。
     心を引きつめては不自由なるぞ。心を引きしめて置くも初心の時の事よ。一期其分では、上段は終に取られずして、下段にて果るなり。
     稽古の時は、孟子が謂ふ求其放心と申す心持能く候。至極の時は、邵康節が心要放と申すにて候。
     中峰和尚の語に、具放心とあり。此意は即ち、邵康節が心をば放さんことを要せよと云ひたると一つにて、放心を求めよ、引きとどめて一所に置くなと申す義にて候。 

     又具不退転と云ふ。是も中峰和尚の言葉なり。退転せずに替はらぬ心を持てと云ふ義なり。人たゞ一度二度は能く行けども、又つかれて常に無い裡に退転せぬやうなる心を持てと申す事にて候。
    【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.77.-p.79.

    【読み解き】

     どうも一行目から腑に落ちないでいる。心が留まってしまっている。いやはや、凡人たる証明かも知れない。
     孟子の言葉は、果たして沢庵和尚がいう、「心」と共通なのか。孟子は仁義について深い思い入れがあると思っている。
     その仁について、これは人間本来備わっているべき心である、と言っている。その心を「本心」と言っている。ただ、儒教家としての見解であるし、性善説を説く孟子ならではの言葉ではないのだろうか。
     だからこそ見失ってはいけないと。もし忘れてしまったら、その「本心」を探し求めるのが、人の道、すなわち学問である。と言っていると私は思う。
     私ごときが、口を挟める分けではないが、「不動智神妙録」なるものの原本があるわけでもなく、誰かが書き写したものだとしたら、聞き違い、写し間違いという事もあるのではないかと、思います。
     それとも、沢庵和尚がいうように孟子がいう本心とは、ここでいう、本心と同義語なのでしょうか。疑問が残ったままです。まさに不動智ではないのでしょう。
     さて、本題に移りましょう。孟子の言葉「求放心」をここで言う意味だとした場合は、初心者の心得であり、邵康節の言う「心要放」という心になる事が修行であると説きます。また、中峰和尚の言葉「具放心」を挙げて、換言しています。いかに心を止めておくことに、心を止めてはならないと、言っています。
     次の文が、沢庵和尚のお話を難解にしていると思います。ここで、一見全く逆と思われる、中峰和尚の「具不退転」という言葉が出てきます。
     退転ですから、心が変わってはいけないと言っています。今、心は放たなければならないと、言った直後にです。
     第二回目の諸仏不動智を思い出してみましょう。【読み解き】に、不動智とは、まさに、自由闊達に動く(止まらない事)と、動じない(止まる事)の矛盾を、修行や稽古によって、身につけようと言っているのではないでしょうか。と書きました。
     要するに「具不退転」と「心要放」の心の在り方、ニュアンスに違いを見つけなければなりません。そして、この一見方向の違う言葉を融合して捉えて、腑に落とすことが、「不動智」を読み解くことではないのでしょうか。 
    【参考文献】
     ・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.