さて、今日は「不動智神妙録」の五番目の項目にある、石火の機を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。
- 石火の機
石火の機と申す事の候。是も前の心持にて候。
石をハタと打つや否や、光が出で、打つと其のまゝ出る火なれば、間も透間もなき事にて候。是も心の止まるべき間のなき事を申し候。
早き事とばかり心得候へば、悪敷候。心を物に止め間敷と云ふが詮にて候。早きにも心の止まらぬ所を詮に申し候。心が止れば、我心を人にとられ申し候。早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心に、又心を奪われ候。
西行の歌集に「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に、心止むなと思ふはかりぞ」と申す歌は、江口の遊女のよみし歌なり。心とむなと思ふはかりぞと云ふ下句の引合せは、兵法の至極に当り可レ申候。心をとどめぬが肝要にて候。
禅宗にて、如何是仏と問ひ候はゞ、拳をさしあぐべし。如何か仏法の極意と問はゞ、其声未だ絶たざるに、一枝の梅香となりとも、庭前の柏樹子となりとも答ふべし。
其答話の善悪を撰ぶにてはなし。止まらぬ心を尊ぶなり。
【読み解き】
ここでは、前回の「間、髪を容れず」を「石を打って火を出す」ことになぞらえ、不動智について目に見えるもので説明しています。
ただし、「石火の如く」早くすれば良いのではなく、早くしようと、そこに心を止めてはいけないし、また止めてはいけないと思う心も良くないと説きます。
前回同様、禅問答を引き合いに出し、答えた内容の、善悪を精査するのではなく、止まらない心で答えたことを尊ぶことが大切であると、評価の対象を明確に示しています。どんなに良い言葉であっても、思案して後で言っても、それは煩悩であるとも言います。
呼びかけられて、反射的に「はい」と答えるのが不動智であり、呼びかけられた後、何の用だろうと思案することが住地煩悩であると続けます。
仏と衆生、神と人は別々のものではなく、不動智を得れば衆生が仏となり、人が神になるのだと説きます。この辺りは、沢庵ならではの、迷いのない説法と感心しました。
心を言葉で解釈すると色々理屈を並べていても、心が何かを明確に見極める事の出来る人が少ないので、誰もが惑わされてしまう。具体的に、水や火を引き合いに出し、直接水や火に触らないと言葉でどれほど説明しても到底説明しきれないと、前回の「理事一致」を再認識させています。
次の文節については、当時の宗教界に警鐘を鳴らしているものであると理解しています。
仏道を学んだ人が少しも心を明らかに捉えられないのは、仏道を学ぶ人の数とはかかわりがない。かえって学んだ人の心持はよくない、と叱咤しています。
心を明らかに知るためにはただただ、深く考え、工夫する他はない。と断言しています。
空手道を練習する中で、幾ら雄弁に事(技)の方法を語ったところで、実際に一本突いてみて、受けてみて、初めて腑に落ちるのと同じ事だと思います。その一本の突きや受けに、一瞬の思案が挟まれると、すでに、役に立たない技になる、と言えるでしょう。
【参考文献】
・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
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