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「イワンの馬鹿」と言うロシアの民話を聞いたことがあります。原作はトルストイと言いますから、世界的に有名な作者です。
内容は、すでにご存知でしょうが、只の馬鹿者では無いようです。
「天才バカボン」(赤塚不二夫原作)にしても、何か憎めないキャラクターが主人公です。
天才と言われる人の中には、常人とは違う行動をとる人がいますが、「英雄色を好む」と言う諺があります。だからと言って「色を好むから英雄」にはなれません。
「イワンの馬鹿」にしても「天才バカボン」にしても、馬鹿だから人が良いのではなく、人が良い馬鹿、人徳のある人と言えるかも知れません。
「ハーメルンの笛吹き男」も有名な話です。これは、約束を破った村人の話で、ちょっと不気味な物語です。今回の話は、その正直についての話です。
いよいよ、次回をもって、「論語を読んで見よう」も、最終回を迎えます。
参考にした『現代人の論語』とは、違う観点から『論語』を読んでいます。理由は、私が知識人では無い事が原因だと思います。しかし、学者や読書家とは一味違った、見方が出来たものと、思っています。
私は、あくまでも空手家であり、武道に魅せられ、仙人を目的にする者ですから、自分の体験を通じて経験にしたものの見方、考え方しか出来ません。そんな目で『論語』を読んで来ました。
感じるままに書いたことが、『論語』の言わんとする事から逸脱した部分もあるかも知れませんが、それもまた一興と思ってください。
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ちょっと、言い訳をしたうえで、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子曰、孰謂微生高直、或乞醯焉、乞諸其鄰而与之』。
●読み下し文
『子曰く、たれか微生高を直なりと謂う。或る人、醯を乞う。これをその鄰に乞いてこれに与う』。【公冶長篇5-24】
「微生高」 と言うのは、姓は微生、名は高と言う人の名前です。尾生とも言われていて、「尾生の信」と言う言葉は、「(1)かたく約束を守ること。(2) ばか正直に約束を守るだけで、融通のきかないこと。愚直。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)
と、ありますので、正直の度合いが普通ではないのでしょう。現代の辞書に載せるくらいですから。
ところが、この文章は、「孔子が、誰が「微生高」を正直者と言っているのだ。「微生高」については、こんな話がある。ある人が酢を貰いに、「微生高」の所に来た。「微生高」は、隣の人に貰って、その人に渡した。」そういう内容です。
これだけでは、孔子の言う通り、正直者とは言えません。人の物を借りて自分の物として与えたのであれば、確かに正直ではありません。しかし、どこに隣の人の物だと言わないで、ある人に与えたと書いてあるのでしょう。辞書にまで「馬鹿正直」と譬えられている人が、嘘をつくのでしょうか。
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まして、『現代人の論語』に書かれてあるように、「体面を繕う偽善的な「微生高」を批判した一章」との記述がありますが、『現代人の論語』の著者である呉智英氏も、荻生徂徠の訳文を載せて、疑問を投げかけています。徂徠によると、この章は、孔子の冗談だと解釈しています。
荻生徂徠と言う人は、現代でも有名な、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者です。この一章をそのように解釈するには、それなりの分析をしての事でしょう。
私は、全く違う解釈をします。もちろん、儒学者・思想家・文献学者ではありません。ただ永く空手道をしているだけの老人です。ですから、あまり期待しないで、読んでください。
【「微生高」は正直者と言う噂がある。ある時酢を貰いに言ったら、親切にも隣の人に頭を下げて、貰ってきてくれた。本当に親切な人である。実は酢を貰いに行ったのは口実で、「微生高」は、どんな対応をするのかを見たかった。期待に外れる事は無かった。】
ここで、私は、ある人と言うのは、孔子の事だと思ったのですが、これは、荻生徂徠と同じです。冗談と言う捉え方が、荻生徂徠は、文章全体を指していますが、私は、酢を貰いに行った事が冗談だと受け取りました。冗談と言うよりも、試したと捉えました。
なぜ、そう思ったか。それは、孔子がいくら貧乏でも、少なくとも、赤貧洗うような生活をしている分けではないと、思いました。ですから、冗談を真に受けて、酢を貰ってきてくれた。と解釈したのです。
冗談を真に受けるあたりが、馬鹿正直と言われるゆえんではと思ったのです。この正直と言う言葉にも、嘘が言えない人とか、実直であるとか、律儀とか色々の意味があるので、どちらかと言えば、律儀な人と言えるのではないでしょうか。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.