論語を読んで見よう
【里仁篇4-25】
[第四十七講 徳の普遍性]

 人が思う事、考える事は、人生の中で、紆余曲折し、若い頃の考えと年月を経て考える事には、相当の隔たりができます。気持ちの上では、20歳の時と、半世紀も経った今でも、全くと言っていいほど変わる事がありませんので、不思議な思いがします。

 還暦を過ぎた頃に、歩道を歩いていると、反対側の歩道から、自転車に乗っているお爺さんが、急に車道に向かったのが見えました。その人が自転車ごと倒れたのです。車道ですから、そのままだと危ないと思い、車道を横切って、中央分離帯の柵に手を掛け飛び越えたのです。手が鳩尾みぞおちあたりの高さですから、1 m10 cm位でしょう。中学生の頃には、片手が掛かれば飛び越えられた記憶が強く、何とも思わずに、柵を飛び越えたのですが、途中で大丈夫かな、と思いました。飛び越える事は飛び越えましたが、自分もお爺さんの域なんだと、改めて気が付いたのです。

 自分では気が付かない内に、体力は思いのほか落ちています。昨年も礒田師範と、たった2、3分自由組手をしただけで、息が上がってしまいました。それでも、準備体操くらいは、やってから組手をしないと、いけないなどと、気持ちは歳のせいにはしていません。これは、言訳でしょうね。

 今回のテーマとは、一見なんの関りも無いところから、書き始めましたが、「孤独」と「徳」の関係についてが、今回のテーマです。

 私が言いたい事は、歳を経てもなんら気持ちは変わらない事を、身を持って体験しているからです。そう言えば20代の時に50代の叔父さんに、同じような事を聞いたことがあります。答えは、やはり変わらないという事でした。

 さて、「孤独」と「徳」の関係を『論語』はどのように書いているのでしょう。
●白文
『子曰、徳不孤、必有鄰』。
●読み下し文
『子のたまわく、徳はならず、必ずとなりあり』。【里仁篇4-25】

 文章は難しくはありません。「孔子が言った。徳は孤独ではない、必ず思いの同じ人が集まる」と言った内容です。

 前回の46講で私は、孤独に耐えられないようでは、君子になる事などできないと書きました。

 ですが、ここでは、徳を得る事ができれば、孤独ではないと言っています。
 流れとしては、同じで間違いないと思います。修行の段階、求めている時には、孤独な道ですが、徳を得て君子となれば、付き従う者が大勢できるという、考えでしょう。

 私には、未だに「徳」と言うものが分かりません。

 このブログの初めには、歳と共に身体の衰えはあるものの、気持ちは変わらない事を書きました。同じ個人の気持ちなのですが若干違うのが、分からないものへの気持ちです。これは、今も変わる事はありません。

 『論語』の中では、時代の背景もありますし、孔子の思想そのものが、『徳治主義』ですから、「徳」と言う言葉が常に出てきます。

 「天」「神」「仏」「運命」「徳」などの言葉が、若い頃となんら変わりません。分からないから否定する気持ちも、若い頃からありません。

 もちろん、随分この事については、考えた時期もあります。いつの頃か失念してしまいましたが、座禅について書物を調べていた時に、「莫妄想まくもうぞう」と言う言葉を知りました。妄想もうぞうするかれ、と読めます。
 ようするに、根拠の定かではない事に思い悩まない事だと思います。
 これだけではなく、悩みに悩む事を繰り返した結果、悩む事を止めたのです。邪魔くさいから、と言ってしまえば、身も蓋もないでしょうが、それだけでもないのは、「莫妄想まくもうぞう」であったり、会津藩の「什の掟」など、昔の人が遺した言葉が大きな要因となっています。要するに、腑に落ちたのでしょう。

 中でも「莫妄想まくもうぞう」は、座禅をすれば必ず頭の中は、妄想だらけになってしまいます。やはり、パスカルの言う「人間は考える葦」なのでしょう。

 印象的な言葉は、「神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り」です。「子連れ狼」【小池一夫氏作】や「柳生一族の陰謀」にも使われている言葉です。もともと、「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」『臨済録』の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷しんけんに逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在になる」と言う教えです。なにも殺人の手引きではありません。悟りを開くための言葉です。

 色々な解釈書を見る事ができますが、「莫妄想まくもうぞう」と同様の意味であると思っています。ただ、妄想とは思えない、正しいと思っている事でも、あるいは執着している事でも、疑ってみて、一度は捨て去る勇気が必要だと言っているのだと思っています。

 ですから、私は「徳」については、未だに分らない事の一つです。考えても分からないから、考える事はしません。

 しかし、人生の中で、「神も仏もあるものか」とも「非情な運命」と思う事もあります。この場合の「神や仏」あるいは「運命」は、使う言葉が無い為にでてくるのです。孔子も『論語』に「天」と言う言葉を何度か使っています。

 前回この矛盾点を探って見ると書きましたが、孔子は『鬼神』の力を頼る事を否定しています。独行道の佛神八貴しぶっしんはとおとし佛神越太のま須ぶっしんをたのまずと同じ気持ちでしょう。孔子も、私同様、というと、えらく不遜な言い方ですが、「理屈では割り切る事の出来ない力」を感じていたのだと思います。しかし、老子のように「タオ」あるいは、キリストのように「神」とは名付け、その言葉に意味づけをする事はなかったのだと思います。ですから「天」と言ったと思っています。

 では、「徳」は、どのようなイメージの時に使うのでしょう。これと言って具体的な事は無く、それでも、その人の周りには人が集まって来る。原因がはっきりしないし、悪だくみをしている分けでもなく、最新の方法でもないのに、成功している人や商人。芸人でもなく、人気取りをしている分けでもないのに、いつもその人の周りには笑いが絶えない。

 そんな人の事を「人徳」があるって、言いますね。『必有鄰』と言うのは、そう言う事でしょう。「徳」は求める物ではなく、「君子」になれば自然と身に付くものかも知れません。

 であれば、私には、未だ「徳」なし。と言ったところです。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.