『不動智神妙録』から学ぶ(Part 3)
「理之修行・事之修行」

 さて、今日は「不動智神妙録」の三番目の項目にある、理之修行。事之修行。を紹介しながら、読み解いて行くことにしましょう。

  • 理之修行 事之修行
     理之修行。事之修行。と申す事の候。
     理とは右に申上候如く、至りては何もあはず。唯一心の捨やうにて候。段々右に書付け候如くにて候。 
     然れども、事の修行を不レ仕候得えば、道理ばかり胸に有りて、身も手も不レ働候。事之修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれは、身構えの五箇に一字の、さま[々]の習事にて候。

     理を知りても、事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取りまわし能く候ても、理の極り候所の闇く候ては、相成間敷候。事理の二つは、車の輪の如くなるべく候。

    ◇[々]は縦書きを横に書き直したため、実際は[くの字点上/くの字点下]の踊り字である。
    【出典】池田諭(1975)『不動智神妙録』, p.29.-p.42.

【読み解き】

 今回のテーマに関しては、特に読み解く必要もなく、まさに「おっしゃる通り」と言いたくなる内容と思います。
 ただ、二行目の「唯一心の捨てやうにて候。」は、前回の「不動智」について違った言葉で言及されているので、どういう意味か、考えてみましょう。
 「不動智」とは「心の動かされよう、心の止まりよう」について智慧を働かす必要性を言っていると思います。
 しかし、ここでは、「心の捨てよう」と言っています。
 何かに心を捕えられれば、これを捨て、心が無駄に動き回るようであれば、この心を捨て、無心になる事が必要であると説いています。

 さて、この項の本題ですが、一言で言えば「頭でっかちになるな」という事です。しかし、理論が不要なのではなく、理(ことわり)と事(わざ)は、どちらが欠けても役に立つものではないと、説いています。

 まさに、その通りで、よく「理屈はいいから、稽古・練習しなさい」と言う言葉を聞きますが、理(ことわり)事(わざ)のバランスが崩れ、頭でっかちになっている人に言う言葉であって、決して体を動かして「技」を習得する事を、疎かにしても良いという事ではありません。
 
 剣道界では、「理業一致」という言葉が有名ですね。北辰一刀流の千葉周作が用いた言葉とする説もありますが、時代の差が200年程ありますので、沢庵和尚の言葉を引用したのかも知れません。

 空手道を習得する中で、この事は特に注意しなければなりません。同じ人でも、理に偏ったり、事に偏ったり、常にバランスを心がけて修行したいものです。
 私は、また、理とは、その時、その時代を背景に、最も論理的あるいは、科学的である考え方だと思うのです。これが真理かどうかは、人間(凡夫)として生きる限る分りようもありません。深く探求していくのが道ではないでしょうか。たとえ道理であると考えたとしても、謙虚であるべきだと思っています。
【参考文献】
    ・池田諭(1970-1999)『不動智神妙録』 徳間書店.
 ☆ 写真の観音菩薩像は若林豊子(従姉)作 15年前に頂いた物。