「座禅」の仕方

  【座禅儀を読み解く】  

 坐禅儀で、有名なのは「普勧坐禅儀」(道元禅師)で、一般的なのですが、学生時代から、作者不明の「坐禅儀」を元に座禅をしていますので、これを紹介してみます。

 原文は下に掲載してありますので、興味ある方はご覧ください。

 では、内容について、意訳いたします。

==初めに、座禅をしようとする人は、自分だけのためではなく、世の中のために座禅をしなければならないと、釘を刺しています。
 座禅でもその他の修行でも、通常の生活を一端忘れ、食べ過ぎず、寝不足でもなく丁度良い状態に保ち、心身ともにリラックスして臨みましょう
 静かな所に座布団を敷き、リラックスできる衣類を着て、座る用意をします。ただし、見た目見苦しいほどのリラックスをしてはいけません。
 心身の用意ができたら、右足を左のももに、右足を乗せられた左足の膝から下を動かし、左足を右のももに重ねます。これを結跏趺坐と呼び、左足を右のふとももの上に乗せるだけの方法を半跏趺坐と言います。どちらでも構いません。
 両足の裏が上を向いていますので、その真ん中に右手のひらを下にその上に左手のひらを上に組み合わせ、両手の親指のひらが付くように合わせます。
 次に、上半身を前後左右に動かして、動かない場所を探して、その上に体を真直ぐに立てます。
 ここで、「浮屠の如く」とありますので、今ではスカイツリーのように安定した状態を想像して座りなさいという事です。しかし、人から見て肩をいからせたり不安にさせるようではいけません。
 耳と肩を結んだ線が垂直になり、鼻とおへそも同様にして、舌は、上あごが落ちないよう支える気持ちで、歯ぐきのあたり置きます。目は少し開いたままにして、眠らないようにします。
 もし、本当に瞑想できれば、その力は最も優れたものになります。円通禅師の言うように、瞳を閉じないようにしないと、「黒山の鬼窟」のようになる。この言葉には深い意味があるので、よく考えるように。
 これで外観ができたら、一切の思考を停止します。もし、何か浮かんでもそれは、煩悩・妄想であると思い、これを捨てなさい。ついに妄想の意識が無くなって集中する事ができたら、これが奥義である。
 坐禅の修行は安心快楽の教えにもかかわらず、病気になる者がいるが、これは仕方がうまくない証拠です。
 日ごろの生活で、食事や睡眠を適度にして、無理せずに修行すれば、健康で幸福になれるでしょう。
 悟りを体得した時の境地を説明していますが、例えとして現在ではそぐわないと思いますので、訳しません。「白髪三千丈」の類だと思ってください。
 もう少し修行が進むと、色々な妄想が頭をよぎり、修行の邪魔をします。これを全て切り捨てましょう
 坐禅を終了する時の心構えと態度を示しています。粗暴にしない事。座禅によって得た力を失わないよう、「嬰児を護するが如く」ですから、赤ちゃんを抱くようにしなさい。そうすれば、ますます得た力が強くなります。
 得た力を禅定といい、座禅で一番重要なものである。
 禅定の例え話が書かれてあります。
 次は、「円覚経」「法華経」に書かれてある禅定の様子が説明されています。
 禅定力が高まると、凡人、聖人と言った区別を超越し、迷いもさとりも一体となると、説きます。また、死を前にしてうろたえることも無くなる。
 この文章を三度も繰り返して読めば、自他ともに救われて悟りの世界へたどり着ける。==
 かなり、端折った部分があります。理由は、できれば、仏教色を無くしたいことと、昔の言い回しを読むと、無条件にありがたいと言葉だと、誤解してしまう可能性が自分にはあったと、思うからです。
 そんな曲解をしないで、昔の言葉を読むことができる人は、是非次の原文を読んでください。
 私が気に入っている部分は「其の飲食(おんじき)を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣(ほしいまま)にせず」です。適当って良いですね。
 私がお寺で参禅した時に質問した時は、「黙って座りなさい」でした。只管(ひたすら)座ることに、意味があるのだと思っています。

坐禅儀(原文)
夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。 坐禅せんと欲する時、閑静處に於いて厚く坐物を敷き、寛く衣帯を繋け、威儀をして齊整ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂骨節をして相拄え、状浮屠の如くならしめよ。又た身を聳やかすこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を拄え、唇歯相著けしむることを要せよ。目は須らく微し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向きの法雲円通禅師も亦た、人の目を閉じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋し深旨あり、達者焉れを知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後臍腹を寛放し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり。若し善く此の意を得れば、則ち自然に四大軽安、精神爽利、正念分明にして、法味神を資け、寂然として清楽ならん。若し已に発明すること有る者は、謂っつ可し龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たりと。若し未だ発明すること有らざる者は、亦た乃ち風に因って火を吹けば、力を用いること多からず。但だ肯心を辨ぜよ。必ず相賺かず。然るに而うして道高ければ魔盛んにて、逆順万端なり。但だ能く正念現前すれば、一切留礙すること能わず。楞厳経、天台の止観、圭峰の修証儀の如き、具に魔事を明かす。預め不虞に備うる者の、知らずんばある可からず。若し定を出でんと欲せば、徐徐として身を動かし、安詳として起ち、而も卒暴なることを得ざれ。出定の後も、一切時中、常に方便を作し、定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成じ易からん。夫れ禅定の一門は最も急務たり。若し安禅静慮ならずんば、這裏に到って総に須らく茫然たるべし。所以に珠を探るには、宜しく浪を静むべし。水を動かせば取ること應に難かるべし。定水澄静なれば、心珠自ら現ず。故に円覚経に云わく、無礙清浄の慧は、皆な禅定に依って生ずと。法華経に云わく、閑處に在って其の心を修摂し、安住不動なること須弥山の如しと。是に知んぬ、凡を超え聖を越えることは必ず静縁を假り、坐脱立亡は須らく定力に憑るべし。一生取辨するも尚お蹉跎たらんことを恐る。況んや乃ち遷延せば、何を将てか業に敵せん。故に古人云わく、若し定力無くんば死門に甘伏し、目を掩って空しく帰り、宛然として流浪せんと。幸いに諸禅友、斯の文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。
[出典:web智光院 URL:http://chikoin.com/blog-category-10.html]
 私事ですが、坐禅儀に限らず、 不動智神妙録や、五輪書にしても、また難しい漢字による四字熟語(明鏡止水・臥薪嘗胆・不撓不屈など)など、その内容よりも、受けるイメージに畏敬の念を持ってしまい、理解する前に勝手に価値を底上げしてしまう傾向がありました。
 これも、勉強に拒絶反応を示しながら大人になったからでしょうか。

 この坐禅儀でも同様、達磨大師が伝えたとされている「教外別伝」「不立文字」とは違って、如何にも宗教らしさというか、宗教色が濃いと思っています。特に、最後の「斯の文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。」なんかは、かえって矛盾が生じ、信じようとする人も遠ざけてしまうのではないでしょうか。

 「教外別伝」という言葉さえ、カッコよくて、惑わされますが、要約すれば、経典や説法をいくら勉強したり聞いても、真理や悟りに近づくことはできないから、「坐禅」と言う方法を残して伝えるので、「只管打坐」、ただただ、座って修行しなさいと言っているのですから。

 その座り方は、静かな場所を選んで、座布団を引いて、適当な心身の状態で、あぐら(正確には結跏趺坐または半跏趺坐)をかいて座り、何も考えないで、何か浮かんだら浮かばないようにしましょう。
 坐禅は普通の生活とは切り離して行い、普通の生活に戻る時は、性急にしないで、座禅で得た心境を守るようにしましょう。
 こんな感じで、座禅儀をとらえたらどうでしょうか。
 動画では、半跏趺坐の方法を紹介しています。

 私は、座禅は、*仏法ではあるけども、宗教ではないと思っています。
 適当が良いって冒頭に書きましたが、いい加減にするという事です。正に、節せず恣(ほしいまま)にせず、が良いと思います。
 今では座禅の座り方も、結跏趺坐や半跏趺坐だけではなく、正座もX坐法(出典:新説阿頼耶識瞑想術)なども、座り方のバリエーションとして増えています。目的は、両膝とお尻で作る三角形で安定した座り方をすることですから、いい加減にするという事だと思います。

 私も若いころには、結跏趺坐する事ができたのですが、最近は右ひざに痛みを感じて、半跏趺坐で座禅をしています。空手と同じであまり形にこだわると、目的から逸脱してしまいます。

【言葉の意味】
*仏法:仏の説いた教え。仏道。出典:学研全訳古語辞典.
※仏法を仏教と同義語とする場合もありますが、ここで使っている仏法は、釈迦が悟りを開き仏陀になって、教えようとした教義の事を私なりに表現したものです。

【転載資料】
『坐禅儀』web智光院 URL:http://chikoin.com/blog-category-10.html
【参考文献】
・太田雅男・大森崇・小向正司・高木俊雄(1992) 『禅の本』株式会社学習研究社.
・村瀬玄妙(1980)『禅問答入門』株式会社日本実業出版社.
・紀野一義(1966-1983)『禅 現代に生きるもの』日本放送出版協会.
・禅心滋光(1994)『SUPER ZEN』KKベストセラーズ.
・朝比奈宗源(1973)『覚悟はよいか』PHP研究所.
・無能唱元(1981-1993)『新説阿頼耶識瞑想術』致知出版社.