文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【83】

 今日の文字は『せい』です。整理整頓せいりせいとんの整です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第八十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 
 今日は、まったく頭が回転しません。いや、中身ですよ。頭が働かないと言う意味です。

 ここ数日、体調が悪いような気がしています。今日は最悪ですね。ニュースを見ても全く興味が湧くものがありません。

 まぁ、こんな日もあると言う事で、気温の変化に注意しましょう。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。ちょっと元気とは言い難いですけどね。

 
徒然草 第八十二段 〔原文〕

 「うすものの表紙は、く損ずるが侘しき」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿らでんの軸は、貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心勝りて覺えしか。一部とある草紙などの、同じ樣にもあらぬを、醜しといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に整へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覺えしなり。

 「總て、何も皆、事の整ほりたるはあしき事なり。爲殘しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるゝにも、必ず、造り果てぬ所を殘す事なり」と、ある人申し侍りしなり。先賢の作れる内外ないげの文にも、章段の闕けたる事のみこそ侍れ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『「薄手の絹織物の表紙は、すぐに擦り切れるので閉口する」と人が言うと、頓阿とんあ※が「薄手の絹織物は上下がほつれ、螺鈿らでんの軸は貝が取れた後の方が良い」と言った事の方が、しっかりした見識だと思った。

 一つの分野の冊子が、同じような外観でない事を醜いと言っても、弘融こうゆう※僧都そうず※が、「物を必ず同じように整えようとするのは、愚かな者がする事である。不揃いだからよい」と言った事も素晴らしいと思った。

 「大概何でも皆、物事が整っているのは悪い事である。未完成の物をそのまま放っておくと、面白く余韻がある。内裏が建造されるときも、必ず未完成の場所を残す」とある人が言っていた。

 昔の賢い人が書いた仏教書や儒教などの文書でも、章段の欠けたものがあるほどである。』
【参照】
頓阿とんあ※:(1289~1372) 南北朝時代の歌人。俗名、二階堂貞宗。下野守光貞の子。和歌を冷泉為世に学び、為世没後も二条派の平明温雅な歌風を守り、同派中興の歌人とされる。和歌四天王の一人。「新拾遺和歌集」の撰に参与。家集「草庵集」、著書「愚問賢註」「井蛙せいあ抄」など。「続千載和歌集」以下の勅撰集に四六首入集。
僧都そうず※ :(1)僧綱そうごうの一。僧正の下、律師の上に位し、僧尼を統轄する。初め一人であったが、のちに大・権大・少・権少の四階級に分かれる。(2) 明治以降、各宗派の僧階の一。(3) 添水そうず
(出典:大辞林第三版 三省堂.)
弘融こうゆう:江戸時代中期の真言宗僧。但馬満福寺の第57世住職。字は即成(そくせい)。俗姓は高岡氏。江戸期に但馬の弘法大師と呼ばれた弘元上人の高弟。池田草庵の兄弟子。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

 

『整』

 未完成の美学と言えるのか、魔よけと言うのか、日光東照宮には、「逆柱さかばしら」と言うものがあります。三本見つかっているようですが、グリ紋と言われる模様が他の柱とは上下が逆になっているそうです。

 物は、完成と同時に崩壊が始まると信じられていた時代があったと言われています。

 「逆柱さかばしら」には、日光東照宮の未完成の美学とは全く逆に、家運が衰退すると言う理由で忌み嫌われていた時代があったとも言います。

 何か、あってから、こじつけてみたら、そんな原因を見つける事が、昔からあったのでしょう。しかし、その原因は的外れの場合が多かったと思います。こじつけですから。

 「画竜点睛を欠く」と言うのは、最後の仕上げを忘れる、いわば失態を言います。やはり未完成では良くないと思います。

 何度も徳川家康の遺訓を載せていますが、

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
 急ぐべからず。
 不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
 勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
 おのれを責めて人をせむるな。
 及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 の最後の一節、「及ばざるは過ぎたるよりまされり。」も未完の美学だと思います。美学と言うよりも哲学と言った方が的を得ているかも知れません。

 何事においても、満たされるよりも、まだ可能性を残した方が楽しいですね。

 かと言って、私は、兼好法師が言う、途中であえて投げ出すような事は、する必要がないと思っています。個人的にはこの「あえて」と言う事は好きではありません。何だか後で言うと、言い訳のように聞こえます。

 余程の達人でなければ、完成するなんて、考えられません。

 空手道の型でも、毎回毎回、一生懸命やっても、納得できる物にはなりませんし、書道でも、何枚書いても思うような作品には出来上がりません。

 この段の最初から、もう一度見て見ましょう。

 頓阿とんあ※と言う兼好法師の歌人であり友人が、「表紙がほつれ、巻物の軸に施されている螺鈿の貝が取れた方が趣がある」と言うのを、流石と褒めています。

 それを未完成の美と言うのは、どうかと思います。

 確かに、今でもジーパンの擦り切れた物が珍重される事もあり、ヴィンテージと言って高価な物がありますが、それが趣があると言う、美的感覚は持っていません。

 それでも、頓阿とんあ※の言う趣と、ヴィンテージを比較すると、私にはヴィンテージの方に軍配を上げたいと思います。

 骨董品には、趣のある物が沢山あると思いますが、やはり壊れた物は、未完成ではなく、評価が下がるのが一般的だと思います。

 特に巻物や掛け軸の軸に施された装飾が壊れていて、趣があると思えるような感覚は、どう考えても不思議に思います。

 次に書かれてある、今で言えば全集と言うのでしょうか、全巻揃っていて、全ての装丁が違っていたり、サイズがチグハグな物を、「不具なるこそよけれ」などと思う感性もありません。

 昔は本棚などなかったかも知れませんが、巻物にしても大小様々なものが混在すれば、整理に困ると思うのですが、それに風情を感じるのですかね。

 今でも、大小さまざまな書籍がありますが、大きさは本棚に入る程度が良いと思っています。

 また、〇〇全集などと言う本の場合は、少なくともサイズは同じでなければ、整理だけではなく、手に取る時に、順番に並んでいないと、探すのに手間取ると思うのですが。

 兼好法師の時代では、優雅にゆっくり時間が進んでいて、手間のかかる事も、楽しめたのかも知れません。

 それにしても、揃える事は、愚かな者がする事だと言われてしまうと、何とも言いようがありません。
 
 しかも、ついに、揃える事は悪い事とまで言っています。仏教書や儒教などの書が章段が欠損しているのは、単なる不備と思えます。 そんな教科書とも言える物に、不完全な箇所がある事はあってはならない事です。

 この段の大方は、不完全の美とも思えない事が書かれてあると思いますが、ただ場合によっては、その不完全さが余韻を残す事もあります。

 それは、文学であったり小説であったり、和歌や俳句、あるいは映画やドラマなど、読み手が作者の意図する以外の事を、考えたり想像したりできる、空白部分を提供できるという利点が、未完成の物にはあると思います。