文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【48】

 今日の一文字は『呪』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十七段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る お呪い

 
 昨日の北海道の地震の強さが、6強から7に変更されたのを知らず、朝テレビを付けて北海道震度7と書いてあったので、また追い打ちをかけて余震があったと思ってしまいました。

 30分ほど経ってから、ようやく昨日の震度が変更された事に気付きました。それでも、大変な被害状況です。

 北海道は仕事で、函館には行った事がありますが、他の地域はまったく分かりません。ただテレビなどでは見ますので、牧歌的なイメージとは違い、大都会だと思います。まだ電気が通っていない所もあるようですが、最近はオール電化の所もあるので、生活が大変だと思います。

 今日のニュースで、トイレは流さないようにと言っていました。特にマンションなどは、排水管に亀裂が入っているかも知れないと言う事です。なるほどと思いましたが、トイレ流せないのは辛いですね。早く復旧して欲しいと思います。
 
 昨夜から雨が続いて降っていますが、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四十七段 〔原文〕

 ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」といひもて行きければ、「尼御前あまごぜ何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。

 有り難き志なりけんかし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  ある人が清水寺に参り、老いた尼僧にそうと道中一緒だったが、道すがら「くさめくさめ」と声に出しているので、「尼僧にそうさま、何を言われているのですか」と聞いても答えもせず、 なお言い続けているので、度々訊ねてみれば、そのうち腹を立てて「もう。くしゃみをした時に、このおまじないを言わないと死んでしまうと言うから、私が乳母をした若君が、比叡山に稚児としておいでになるのに、今もくしゃみをされているかと思えばと心配して、このように言っている」と言った。
 めったにない愛情だ。 』

 

『おまじない』

 そう言えば、「ちちんぷいぷい」と言われた事ありませんか。大阪では、怪我をすると、親がその部分をさすって、痛みを和らげてくれた記憶があります。随分小さい時ですが。

 今では、大阪ではテレビ番組の名前になっています。

 これは『おまじない』ですが、「呪文」と言います。「のろい」と読んでしまいますが、読み方によってイメージが変わるものです。

 大阪弁のような気がしましたが、古く昔からある言葉らしいです。古くは「ちちんぷいぷいごようのおんたから」と言ったそうですが、聞いたような聞かないような、記憶も定かではありません。

 語源は知仁武勇御代の御宝ちじんぶゆう ごよのおたからとの事ですが、これは聞いたことがありません。

 「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでいけ」と言うのは、聞き覚えがあるのではないでしょうか。

 呪文が有名なのは、ハリーポッターの中でよく言われていると思いますが、まったく詳しくありません。娘がハリーポッターにはまっていた時期があります。随分昔の事です。
 
 大阪にあるUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)では、この物語を再現しているそうですが、行った事はありません。

 「開けゴマ」、と「アリババと40人の盗賊」の中で唱えると、岩の扉が開く、と言うのも呪文です。

 呪文も、おまじないも、何か叶えたい事を言う時に使うと思いますが、私が個人的に一番それらしく感じられるのは、真言です。

 私が知っている真言と言うのは、真言宗に伝わるもので、お経を上げるときにも真言を称えます。断っておきますが、私は真言宗の信者ではありません。たまたま、親の代から真言宗と言う事を伝え聞いていただけの事です。

 ちなみに、光明真言と言う一番有名な真言を紹介しましょう。

 「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」

 この言葉も宗派により多少違いがありますが、私は特に仏教徒でもありません。

 先述したように、親の代から真言宗であり、お経を上げる時には、この真言も仏前勤行次第ぶつぜんごんぎょうしだいの中で唱える事になっています。

 真言にも、呪文と同じように効能があるらしいのですが、気にした事もありません。

 他にも仏前勤行次第ぶつぜんごんぎょうしだいの中には、色々な真言が含まれていますが、ここでは、真言も呪文の一つとして紹介するに留めて置きます。

 こんな事を言うと、真剣に宗教を信じている人にお叱りを受けますが、「鰯の頭も信心から」と言われるように、まず、信仰心がなければ、何事も始まりません。

 信仰心は、前にも書きましたが、残念ながら持っていません。しかし、否定するものでもないのです。

 確かに、私のような懐疑心の強い人間が、いや、自分ではそう思いませんよ。それでも、何かにつけて、物事の本質を知りたいと思ってしまうから、やはり、懐疑心が強いのでしょう。

 それでも、時には理論的では無い事も、信じてしまいます。理由もなく。

 ですから、よくこのブログにも書いていますが、「縁」なのかと思ってしまいます。理由もなく人を好きになったり、理由もなく物に惹かれたり、よく考えてみると訳けもなくです。

 この段の呪文は、「くさめくさめ」ですが、これを「クシュンクシユン」と訳している人がいましたが、これは呪文ではなく、くしゃみの擬音に聞こえます。

 当時は、「くしゃみをすると早死にする」という、言い伝えがあったとされています。これには、理由もあって、昔も今もそうですが、呼吸は命に直結した動作と言うのか、働きと言えます。

 この呼吸が、正常ではないのが、くしゃみです。ですから、呼吸が正常でない、イコール命に関わる、と考えてもおかしくはありません。

 今でも神殿に向かい神妙な面持ちで、祈祷されて、頭を垂れます。

 この邪気を払う事を自分でやろうとしたのが、「おまじない」だと思います。しかも、「ちちんぷいぷい」と同じで、自分の災難ではなく、人の災難をどうにかしようとする行動です。

 この段で、乳母おんば尼僧にそうである、おまじないを唱えている女性が、どういう分けで、自分が育てた、遠くにいる若君が、くしゃみが出た事を知ったのか、この文章からは、分からないのですが、兎に角、この尼僧にそうは、そのように心配になったのでしょう。

 確かに、「虫の知らせ」などと言う言葉があるように、理由もなくある人の事を想ったり、心配したりする事があります。取り越し苦労をしてしまう事が実際に誰もが経験しているのではないでしょうか。心配までは行かなくても、気にかかる程度の事は、誰にでもあると思うのですが。

 私にも乳母おんばさんがいた時期がありました。私の場合は、高貴な出でもありませんが、母が病弱で、幼児の頃に、乳母おんばさんの家に預けられた時があったそうです。自分では覚えていませんが、中学に上がるころまで、乳母おんばさんは自分の子のように気遣ってくれていました。

 ちなみに、乳母おんばさんと言うのは、乳母おんば日傘で育てられる」と言う言葉で使われますが、大事に育てられると言う意味に使われていました。

 鎌倉幕府をひらいた源頼朝みなもとのよりともにも、乳母おんばさんがいたそうですが、なんと4人まで明らかになっていると言いますから、他にもいたのでしょう。

 この若君をこよなく愛していたのだと、想像に難くない尼僧にそうの言動です。これも想像しか出来ませんが、実の子ではありませんから、自分の役目を終えたのか、それとも、切り離されたのか、ただしばらく離れているだけなのかは、解りません。

 それでも、自分が近くにいてやれない、遣る方やるかたなさなのでしょうか。そんな気持ちが伝わってきます。

 原文の最後に「有り難き志なりけんかし。」と締めくくっていますが、人を思う心は、親子であっても、また育ての親であっても、子供を思う気持ちは、そんなものだと思うのです。ですから そんなに特殊な事でもないと、個人的には思っています。

 何かしようと思っても出来ない時もあります。そんなとき、おまじない位は許されるのではないでしょうか。