今日の一文字は『捨』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二十段』を読んで見て、感じた文字です。
原文
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遁世
空
このごろ、ふと思うのですが、児童・生徒・学生を通して、全く勉強してこなかった罰を受けているかのように、一日中勉強しています。
朝は、毎日の日課でカリキュラムを立てたとおり、1時間は身体を動かしていますが、それからは、ブログを書くために、勉強しなければ一行も書けません。もちろん理由は、勉強してこなかったせいで、古文や漢文の読み方も今勉強して書いています。
ブログを書くのに、行き詰ったら、テレビを観るか、お習字をします。合間を縫って、拳や足の脛を鍛えます。
ブログ、と言っても今は「徒然草」を読み解くのに、まるで河野悦子(地味にスゴイ!校閲ガール【テレビ番組】主演石原さとみ)のように、インターネットで調べて確認をしながら、一日中書いている時もあります。インターネットがなければ、一行も書けない所です。インターネットってすごいですね。
そして、寝る前は、これも日課にしていますが、高校生卒業レベルの漢字テストを10問やります。これで100点を3回取るまでやるのですが、時々、100点取れずに寝てしまう事もあります。
さて、今日も一日元気で過ごしましょう。
徒然草 第二十段 〔原文〕
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
『現代文』
まず、我流で現代文にしてみましょう。
『なんとか言う世捨人が「この世に絆を持たないが、唯一空の美しさを見れなくなるのは惜しい」と言った事は、誠にもっともな事だと同感する。』
『遁世』
辞書で「遁世」を調べてみると、『世間を逃れること。世を捨てること。〈とんぜ〉ともいう。遁世した人のことを、〈とんせいしゃ〉〈とんぜいじゃ〉といい、中世には多くの遁世者が現れ、宗教者としてだけでなく、文学、芸能の面でも活動した。仏教のたてまえからすれば、出家して寺院に入ることは、遁世することであった。しかし、仏教を高度な外来文化を総合するものとして受容した日本では、寺院と僧侶は国家や貴族社会からさまざまな規制を加えられたために、寺院は第二の世俗というに近く、出家することは遁世にならなかった。 』 (出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版.)と書いてありました。
ここで言う世捨て人は、「いつか我この世の空をへだたらんあはれあはれと月を思ひて」 (『山家集』)と詠った西行法師を思い浮かべての言葉と思われます。
兼好は、「誠にさも覚えぬべけれ」 と、この思いに同意しています。
西行も兼好も、私が思う人物ではなさそうです。
【良寛】
現世にたいして思い残す事などあっても、露と消える身ですから、それなら悟ったような振る舞いをせず、良寛さんのように「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」 のように自由奔放に生きた方が好ましいと思ってしまいます。
それにしても、この「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」 と言う辞世の句、味わい深い一句ですね。良寛さんの句には「散桜残る桜もちる桜」 もあるそうです。この句を辞世の句と言う人もいますが、真意の程は分かりません。
そう言えば、今から25年程前に、脳梗塞を患って、半身が不自由になった友人から「天上大風」 (良寛さんの言葉) と書いて欲しいと頼まれた事があります。
一応は半切(掛け軸大)に書いて見たのですが、当時は書道に対しては、全くの素人でした。彼は、空手道の先生として書いてほしかったようですが、本人に渡せずに月日が流れてしまいました。
渡せなかった理由は、そんな大それた事を書ける身分ではない事ですが、もしこれを書いて渡していても、後悔するでしょう。まだ、書いて渡さず未だに心残りでいる方が、自分自身は許せる気がします。
【出家】
辞書にあるように、「遁世」にしても、単なる「出家」では、その意思が反映できなかったのかも知れません。世俗を断つ事の難しさは、今も昔も変わらないと言う事かも知れません。
「出家」しても生きていける社会がなければ、「出家」は死に直結します。経済活動をせず、ひたすら仏法を信じ悟りを開こうと修行を重ねるのですから。
もちろん、中には自給自足で、自分で食べる物を自分で供給する人もいるかも知れません。しかし、大半は「托鉢」と言う社会との関りがあって、その日を凌いでいます。
「托鉢」は修行のための方法ですから、いただくものに不満を持つ事はないのかも知れません、そして頂けなくても満足しなければなりません。しかし、それでは生きていく事は出来ないのです。
やはり、一般社会、特にこの世知辛い、経済最優先の世界からみると、托鉢は、施しであると考えてしまいます。
【十牛図】
前に〔『徒然草』を読んで見る。【18】〕 で、十牛図を紹介しましたが、その最後の十番目の『入★垂手にってんすいしゅ :日常生活に戻る』 まで修行をしなければ、悟りとは言えないと思っています。
★「てん」の文字は環境依存の文字でも少し違いますので、書いて見ました。
『空』
ここでは、空の美しさを言っていますが、『空』を見上げると、色々な事を考えてしまう時期がありました。
中学生の頃、学校の鉄棒の横にある芝生に仰向けになり、空を見上げていました。空が美しいかどうかは分かりませんが、なぜ空が青いのか、沸々と疑問が湧きおこり、結局解明するには至りませんでしたが、考え抜いた記憶があります。
人生の中で、何度か踏み込んでしまうのでしょうか、知識の限りを使って考え込む事があります。
しかし、空を見て美しさを感じたり、物思いにふける事はありません。
「空」は、「空手」の「空」であって、他の何ものでもありません。一時は、「空家」の貼り紙を見ても、「空手」と勘違いしていました。
恋は盲目と言いますが、私にとっての「空手」は、そんなものだったのでしょう。今でも一日の大半は、空手の事、「空手道」の事が頭を占有しています。
仏教に造詣がある分けではありませんが、昔から座禅や般若心経には縁があります。「唐手」から「空手道」と言う文字を使うようになった事も、慶應義塾大学唐手研究会が機関誌に「空手道」と言う名称を使ったのも、「般若心経」の「色即是空」からその意味を考えての事だと思っています。
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ですから、「空」の文字から受ける印象は、〔そら〕ではなく〔くう〕になります。
そして、「空」ですから、何もありません。「空」に未練を残すような事もないと思いますし、自然に対しては、常に人間は自然の一部と思っていますので、これにも心を奪われる事もないと思っています。
未練は、生きている時だけにあるもので、消滅するときに、未練など残したくはありません。
良寛さんではないですが、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」 の心境になって散って行きたいものです。
さらけ出すものがあるほど、中身がある分けでもないのに、まだまだ躊躇してしまいます。