文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【16】

 今日の一文字は『旅』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十五段』を読んで見て、感じた文字です。

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 随分個人的には涼しく感じる朝になりました。と言ってもまだ8月も始まったばかりで、これからまた暑くなるのでしょうね。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十五段 〔原文〕

いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ。そのわたり、ここかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣めなれぬ事のみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる、「その事かの事、便宜びんぎに、忘るな」など言ひやるこそをかしけれ。さやうの所にてこそ、よろづに心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。

寺・社などに忍びてこもりたるもをかし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。やはり自己流に過ぎない読み解きです。

 『どこでも旅に出るのは、目が覚めるような心持である。旅先であちこと見て回り、田舎びた所、山里などは、特に見慣れない所が多い。
 都に手紙を託す。「その事やあの事を、都合の良い時にやって置くように」などと書く事も実に楽しい。
 このような所でこそ、色々と気が付くものである。持っている道具まで、良い物は、一層よく見え、才能ある人も、容姿の優れた人も、普段よりも評価が高くなる。

 寺や神社にこっそりと泊り込むのも楽しい。』

 

『旅』

 旅と言うのは、好きな人が多いと思います。ですから旅行会社が成り立っているのでしょう。

 残念ながら私は昔から、旅行は、何だか後ろめたく罪悪感があります。なぜでしょう。

 自分だけのんびりして、自分だけおいしい物を食べて、景色を眺めても心の落ち着く事がありません。

 旅行でも、目的があると罪悪感が湧きません。例えば、スキー旅行とかゴルフ旅行とか、試合に出かけるとか、演武の為に遠くに行くとか、合宿などは、罪悪感がありません。

 目的を持った旅行には、兼好の言う、楽しむと言った余裕が出来ません。ですから、仕事をしている感覚です。とても、旅行を謳歌する事などできないのです。

 困った性格ですね。

 ただ、旅行には思わぬ効果もあるように言われています。それは人間関係のリフレッシュと言えるかも知れません。また、自然と触れ合う事は、昔も今も気持ちが安らぐのでしょう。

 兼好の言う、『ゐなかびたる所』と言うはどう言った所なのでしょう。その次に山里と言う言葉がありますので、田や畑の広がった風景でしょうか。それとも、人の少ない都会から離れたところ、と言う意味として使われているのでしょうか。

 兼好の時代の事が良く分からないのですが、私などから考えると、大正時代の事も実際には分かりません。大人になるまでは、大正時代は暗黒の時代のように思っていました。しかし親の話や、見聞きする歴史を考え合わせると結構明るい時代であったと思うようになりました。

 知らない事ばかりで、『ゐなかびたる所』と言うのもピンとこないのですが、兼好としては、心の休まる所であったと、思います。

 最後に神社仏閣を尋ねて、と書いてありますが、高野山で山籠もりの真似事をしていた時には、都会とは違って、稽古に打ち込む環境が整っていたと思います。

 高校生の頃から、観心寺と言うお寺で泊まり込んで、友達と二人で空手の稽古をした事が何度かあります。この場合も稽古だけの日を過ごす事ができました。

 ようするに、旅と言うのは、日ごろの色々なしがらみから離れて、心をリフレッシュするには最適なのでしょう。

 問題は、そういう日常の生活を離れると、いつもの光景が良く見えると書かれています、評価が高くなるようになるのも、困りものです。

 私は、兼好の言う事とは、すこし違った感想を持っています。 ややもすると主観的に物事を判断しがちになる日常の生活を離れると、客観的な見方ができるのではないかと思う事です。

 組織の中にいては、見えない事も、一旦外から見て見ると、意外と解決策が見えてくるようなものです。

 人間関係で言えば、冷却期間を置くことができることになるかも知れません。

 また、自分を探す旅、なんて言う時もあります。色んな旅の形があると思いますので、旅行好きな人は、十分旅を満喫してください。

 

『新鮮』

 『所変われば品変わる』と言われる事があります。『難波の葦は伊勢の浜荻なにわのあしはいせのはまおぎ』と言われて、同じものでも呼び方が変わる事があります。

 『目さむる心地すれ』と、原文の冒頭にありますが、『新鮮』な思いをさせてくれるのも、旅の良い所でしょう。

 私などは、そういう『風雅』の解らない人の一人でしょう。例えば綺麗な花を見て、美しいと素直に思えない、野暮天と言われる部類に属していると思います。

 自分で分析してみますと、多分『理屈っぽい』のだと思います。人から言われた事もありますし、何でも理屈で処理しようと思ってしまうのでしょう。

 ですから、お習字は理解できても、芸術と呼ばれるものには、惹かれる事がないのだと思います。というより、今のところ分かりません。

 理屈や知識以外でも、人の能力の存在は認めていますが、これが理屈では割り切れない所にあるので、確認するのに特殊な能力が必要なのだと思っています。

 これは、誰にでも説明する事の出来ない能力ですから、評論家の言いたい放題になります。ですから、芸術家の生み出す作品などの評論は、あまり真に受けない方が良いと思っています。

 ところが、時には、私でも感じる事のできるものに、出くわす事があります。いわゆる『目から鱗が落ちる』という状況です。

 浅はかな、つたない知識を越えて、飛び込んでくるものに、心を揺さぶられる事があります。

 時には、場所を変えて、主客を逆転する事も、新しい事を発見するのに良い事だと思います。

 例えば「円錐」の物を見て、三角形と思うがあると思います。その時は、信じて疑わない三角形が目の前にあります。

 製図で言えば、立面図や側面図に表されているのは、紛れもない三角形です。しかし、平面図を見ると、明らかに『円』です。

 この程度なら人間には遠近感がありますので、円錐を見せられた時に、僅かの位置で円錐だと思えるのだと思います。

 しかし製図の立面図や側面図を書いた位置から見たとすると、やはり、誰が円の部分を想像する事が出来るでしょう。

 これが人間の認識方法です。今ではトリックアートと言われている、騙し絵が有名ですが、人間の錯覚をうまく利用した作品です。

 トリックアートなどは、認識の仕方を説明されたり、内容を説明されると理解できると思います。それこそ『新鮮』な気持ちになります。『眼から鱗が落ちる』ことを体感できると思います。

 しかし、兼好の言っている、日常と違う事をしたり、日常と違う場所に行くことで、『心が洗われる』事もあると思います。

 一休みする事を、『心の洗濯』と言う事があります。『狭い日本、そんなに急いでどこに行く』と言う標語があったと思います。

 旅にでもでて、心を洗濯して、新しい気持ちで、明日をすがすがしく迎えたいものです。