文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【13】

 今日の一文字は『灯』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 ボクシングのニュースでもちきりです。相撲協会のニュースでも、テレビ局の姿勢に疑問がありました。

 今回も、ニュースの在り方に疑問を感じます。正しいか正しくないかをテレビ局が決めてどうするつもりですか。

 ニュースは公平にするべきです。表面上は公平公正を標榜し、そのように聞こうと思うと聞けますが、なんだか、初めから決めつけた物言いに聞こえます。

 最近はスポーツの団体で不祥事が続発していますが、すこし危惧している点があります。それは、組織の在り方についてです。

 組織は、自浄作用があってしかるべきで、その為に役員がいて、理事会や役員会が設置されています。

 まず、組織内で議論し改善していくべきではないのでしょうか。それが法人であろうと、任意団体であろうと、公益法人であろうと、税金を使われているから、市民が口出しても、テレビ局が何を言っても良いのであれば、組織を形成する意味がなくなってしまいます。

 会社でも、官僚でも、国会でも、まずその組織で話し合って、それでも解決できない組織は、すでに組織の役目を果たしていないと思うのですが。

 老婆心でしたか。

 
 今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第十二段 〔原文〕

ひとりともしびのもとにふみをひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。

文は文選もんぜんのあはれなる巻々、白氏文集はくしもんじゅう※、老子のことば、南華の篇。の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。これは、古文の正式な現代文にする方法とは違いますので、文法上違っている所もあると思いますが、あくまでも、私が読み解いた文章です。

 『ひとりともしびの下で、書物を開いて、昔の人の書いた物を読むと、まるで友人と話をしているようで、この上なく心がなごむ。

 書物は「文選もんぜん※」の趣深い巻物を編集した物。白氏文集はくしもんじゅう、老子のことば、南華の篇なんかのへん※が良い。日本の学者が書いたものでも、昔の物には深い趣がある。』

※文選:この場合は「ぶんせん」と読まず、「もんぜん」と読みます。
中国の詩文集。六〇巻(もと三〇巻)。南朝梁りようの昭明太子蕭統しようとう編。530年頃成立。周代から南北朝にいたる約1000年間の作家百数十人のすぐれた詩・賦・文章を、文体別・時代順に編集してあり、中国の文章美の基準を作ったものとして尊重された。日本にも早くから伝わり、日本文学に大きな影響を与えた。(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
白氏文集:はくしもんじゅう中国、白居易の詩文集。もと七五巻(七一巻が現存)。前集五〇巻(824年成立)は元稹げんしんの編。後集二〇巻・続後集五巻は白居易自身の編。前集が長慶年間に編集されたので、「白氏文集」全体を「白氏長慶集」ということもある。日本でも平安時代に広く読まれ、以後の文学に大きな影響を与えた。文集。(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
※南華の篇:南華真経の事だと思います。荘子の別名と思われます。

 

『灯』

 やはり、昔ですね、多分ロウソクの火の光で勉強したんでしょうね。ロウソクもあったかどうか私には分かりませんが。時代劇では油の受け皿に紐のような物が見えますが。

 今の卒業式は別の歌に変わったと聞いていますが、昔は、「蛍の光」でした。
「蛍の光、窓の雪、ふみ読む月日、重ねつゝ、何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。」

 これは、その頃でも電灯はありましたので、それくらいの思いで勉強に励んだと言う意味でしょう。原曲は日本のものではなく、スコットランド民謡と聞きますが、作詞は稲垣千頴いながきちかいと言う日本人です。

 ここでも、中国の故事 「蛍雪の功けいせつのこう」 を参考に作詞されたのでしょう。

 聖徳太子の十七条の憲法や、明治時代まで教育の根幹であった『論語』にしても、中国を手本に日本は歴史を重ねてきたことが、兼好のこの文章でも明らかです。

 いつからでしょうね、中国が手本とならなくなったのは。

 しかし、今でも中国の古い書物には、見るべきものが多くありますので、兼好が言った、日本の学者でも昔の物は良かったという事でしょうか。

 

いにしえ

 「故きを温ねて新しきを知る」いわゆる「温故知新」です。『子曰、温故而知新、可以為師矣』、ようするに、「古くから伝承されている事をしっかり勉強して、新しい知識を得れば、人を教える事ができるようになる。又は、教える資格がある。」と言う事です。

 一つ言えるとすれば、昔の物は何でも良いのではなく、歴史のフィルターを通って現在に伝えられているので、良い物が選別されて残っているとも言えるのではないでしょうか。

 当然、中国の歴史は日本より長いのですから、その影響は明らかです。そして、日本の政治を司る人達や、文化人と言われる人の多くは、中国の古い書物を知識の礎にしていたのが現実でしょう。

 それが、戦後アメリカナイズされた事は、良い事ばかりではないと思います。西洋文化が正しい事ばかりではないのは、西洋の歴史を見ても明らかです。

 では、逆に東洋文化が正しいかと言うと、そうとも言えません。

 やはり、「温故知新」古きを尋ねることは大切な事ですが、妄信はいけないと思います。新しきを模索していかなくてはならないのでしょう。

 兼好は、昔の書物に拘って、その当時の学者などを非難するように聞こえますが、果たしてそうでしょうか。

 「今の若い人は」と言う言葉は、いつの時代でも言われて来ました。それは、自分たちが育つ過程で培った価値観と、今の若い人の価値観にずれが生じるからで、当然価値観の違う者どうしが、正面からぶつかれば喧々囂々けんけんごうごうとなって当たり前です。それを侃侃諤諤かんかんがくがくに変える事が出来るのが教養だと思うのです。

 頭から今の時代を否定するのも、肯定するのも間違いだと思っています。かと言って、昔の時代を鵜呑みにして肯定するのも、初めから古いと斬捨てるのも間違いだと思います。

 良い物は良い、悪い物は悪い、是々非々で世の中は進むべきだと考えます。
 だからと言って、そうすれば正しい世の中になるとも思っていません。ですから、是正を常にして行かなくてはならないのだと思います。

 人間ですから。