文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【23】

 今日の一文字は『盧』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 現在

 昨夜は『連続ドラマしんがり~山一證券 最後の聖戦~』(主演:江口洋介)を今朝の2時半ごろまで観てしまいました。

 そういえば、その頃から大企業や銀行と言う、私などは、潰れるわけがないと思っていた企業が、軒並み、合併したり名前を変えたり、終身雇用の人生の計画が様変わりした時期だった事を思い出しました。

 それでも人は、寄らば大樹の陰と、良い大学に入って、大きい所に就職しようと言う風潮は、まだ続いているのでしょう。

 しかし、一番潰れそうもない国に就職して、官僚になっても、その志が低ければ、途中でリタイア、なんて事になると思います。まぁ、息子の裏口入学に頭を使うような官僚に、日本の国を預ける分けにはいかないですね。

 今になって、勉強しても、勉強する目的が違いますから、この歳で受け皿もありませんが、勉強は自分の為に、ひいては、教養のためにしたいと思います。
 
 
 さぁ、まだまだ暑さが続きます。今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二十二段 〔原文〕

何事も、古き世のみぞ慕はしき。今樣は、無下むげに卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠のつくれる美しきうつはものも、古代の姿こそをかしと見ゆれ。

 文のことばなどぞ、昔の反古ほうごどもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。いにしえは、「車もたげよ」「火掲げよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。「主殿寮人数とのもりょう・にんじゅだて」といふべきを、「立明し白くせよ。」と言ひ、最勝講さいしょうこうなるをば、「御講みかう」とこそいふべきを、「講廬(こうろ)」と言ふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『どんな事でも、昔の事が懐かしく思える。現代は、やたらと下品になって行くようである。あの木工師の造った、美しい什器も、古代の姿の方が風情がある。

手紙の言葉も、昔の人の書き損じたものはすばらしい。日常の話言葉も最近は情けなっている。

昔は、「車もたげよ」「火掲げよ」と言っていたのが、今は、「もてあげよ」「かきあげよ」と言う。「主殿寮人数とのもりょう・にんじゅだて」と言うべきところを、「立明し白くせよ」と言い、最勝講さいしょうこうを「御講みかう」と言うべきところを、「かう」と言う。残念だと古老が仰った。』

 

『現在』

 「昔は」。この言葉を何度聞いた事か。「今の若い者は」と同じ言い方だと思います。

 単に懐古趣味と言うのは簡単ですが、これだけ、永い歴史の中で、日本だけに止まらず、諸外国でも、同様の言葉が残っていると言われていますが、真意の程は分かりませんが、私もあると思っています。

 私自身はと言うと、やっぱり昔は良かったと思う事があります。しかし、兼好の言うように、昔の人が造った物が、今の人が造った物よりも優れているとは思えません。同様に昔の人が書き損じた物が、今の書道家が清書したものよりも優れているとも思えません。

 言葉に対しては枕草子(二六二段)の中で清少納言が、最近の若者の言葉の乱れについて、みっともない。といっています。これは、『「五輪書」から学ぶ Part-74【火之巻】後書』に記載した事ですが、現在でも、私などの常識では考えられない、言葉を若者は使います。そして、私の若い頃は、大人の人から見れば、なんと品の無い言葉を使うと思われた事でしょう。

 実際私も小学生の頃だったと思いますが、母親から「そんな汚い言葉、どこで覚えてくるねん」と言われた事がありました。

 時代と言うものは生き物のように変化しながら、時を経ていくのでしょう。ですから、自分の尺度で今を見ると、当然価値観も違いますから、良いように映る訳がありません。これは、教養の差ではなく、知識の差、環境の差と言えると思います。

 進むと言うと、進化に聞こえますが、時が流れて環境に変化が出来るのだと思います。ゆっくり動く時代もあれば、激動と言われるような時代もあります。

〔頑迷〕

 そんな中で、ややもすると、大人になってから、徐々に自分が確立するのと同時に、頭も固くなり、柔軟性に欠け、受け入れる余裕が少なくなるのかも知れません。鵜呑みは良くないとは思いますが、『瀉瓶』のように、一旦受け入れてから、取捨選択する余裕を持ちたいものです。
【瀉瓶・写瓶】(瓶の水を他の瓶に移し入れるのにたとえる) 仏法の奥義を遺漏なく師から弟子に皆伝すること。写瓶相承(しゃびょうそうじよう)。(広辞苑)

 私は、そんな臨機応変に柔軟になる事こそ、教養ではないかと思っています。

 特に、歳を経るごとに、自分の知らない内に、固執する度合いが高くなっていくでしょう。それだけ体験や経験も多くなるし、知識も増えるのですから、自信もできるのでしょうが、ここは一つ、『老いては子に従え』と言う言葉を思い出して、頑迷固陋がんめいころうにならないよう気を付けましょう。
頑迷固陋がんめいころう:考え方に柔軟さがなく、適切な判断ができない・こと(さま)(出典:大辞林第三版 三省堂.)〕

〔価値観〕

 なぜ、昔を懐かしく思い、昔は良かったと感じるのでしょう。私は、見る目だと思っています。物を見て、判断する、判断力でしょう。いわゆる『価値観』と言われる物です。

 平たく言えば、好き嫌いかも知れません。

 人は皆、それぞれ価値観が違います。それは、育った環境や知識がそれぞれ違うからで、好みもそれぞれ、『無くて七癖』と言われるように、みんな癖も違います。ですから面白いのでしょう。

 であれば、昔の物は良いのではなく、良い物が歴史のフィルタを通って、現在に残っていると考えると、理解ができると思います。

 現在ある物は、どれだけ現在の人に高く評価を受けても、まだ現在と言う一つのフィルタしか通っていません。ですから、価値観の違う人から見ると、当然、駄作に見えるかも知れないのです。

 私は、ようやくお習字から書道への道に差し掛かったところですが、これも一つの価値観で評価があり、正師範と認定されただけの事で、一つのフィルタを通過しただけの事です。

 書き損じたものを見る機会はありませんが、昔の商人が書いた「大福帳」、今で言えば、経理の現金出納帳か元帳のようなものです。これが何とも、美しい文字で書かれてあります。

 毎日毎日、筆を持ち、書き連ねる文字は、練習量から言っても現在とは比較できないと思います。

 私は、芸術は分かりませんが、古典と言われる中国のものや、日本でも各時代で三傑などと称された人の文字は、評価する立場ではありませんが、やはり上手だと思います。

 しかし、最近流行の奇抜な毛筆の文字には、首を傾げます。これも価値観の相違なのでしょう。

 デザイン的には外国でも評価の高い、毛筆の文字ですが、これを書道と言うのは如何なものでしょうか。別のジャンルにすれば良いのですが、一律書道と言う言葉で括られてしまいます。

 例えば、書写、書道、これは今でも別れています。そして、毛筆文字芸術、毛筆デザイン文字とかの種類分けが必要なのかも知れません。

 

『盧』

 「御講みかう」と言うのですね。全く初耳です。
 
 で、辞書の出番です。

 まず、『御講みかう』を引いて見ましょう。辞書の読み方は、『おこう』となっています。
 
(1)古く、宮中や諸大寺で行われた仏事。法華八講ほつけはつこう唯識講ゆいしきこう・三論三十講など。
(2) 真宗の寺院で、親鸞の忌日に行われる仏事。報恩講。 [季] 冬。
(3) 仏教の信者が、称名・読経・聴法などのために、毎月、日を定めて行う会合。
(出典:大辞林第三版 三省堂.)

 そして、次は『盧』です。学研全訳古語辞典(学研)では、『庵』と『盧』は同じ意味で扱っていますので、一応『仮小屋』とします。

 また、その前にある、『最勝講さいしょうこう』とは、【平安時代以降、清涼殿で、毎年5月中の吉日を選んで5日間、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の高僧を召して、「金光明最勝王経」全一〇巻を、朝夕二座、一巻ずつ講じさせて国家安泰を祈った法会。】(出典:大辞林第三版 三省堂.)となっています。

 前後の文字と合わせて、インターネットで色々調べて見ましたが、およそ、次のように解釈することができます。
 
 国家安泰を祈る法会に天皇が出席して聴講する場所の事を、「盧」と呼んだのでしょう。

 これを、かう」と言うのは、今、考えても、短縮し過ぎの感じがします。敬語だと思いますが、「御」を取ってしまっては、いけないでしょう。

 近頃は、正しい日本語を使うプロフェッショナルであるはずの、アナウンサーが、局の思想なのか、天皇家に属する人達の言葉を、「言った」などと、敬語を使わずに電波に乗せている事が時々あります。

 これは、敬語だけではありません。「それは、違うだろう」と突っ込みたくなる言葉が、アナウンサーの口から聞こえますと、「口をしとぞ、古き人の仰せられし。」と同じ思いをしてしまいます。

 言葉ですから、直ぐに流れてしまうので、確かではありませんが、そのように感じた事は、度々あります。

 「口をしとぞ、古き人の仰せられし。」と思うだけではだめかも知れません。