不惑で有名な『論語』の文章が出てきました。
「もうすぐ三十」 昭和50年 作詞作曲上岡龍太郎、歌っているのが、上岡龍太郎 。昭和50年ですから、ちょうど長女が生まれた年です。
私の歳にぴったりの歌が、毎日のようにラジオから流れてしました。上岡龍太郎と言っても、今では知っている人も少なくなったのではないかと、思います。多才多芸の人で、一般的に知られているのは、「漫画トリオ」で一世を風靡しましたが、2000年の春に、突然芸能界を引退し、それ以降まったく姿を見ていません。
歌詞は、
1.いまだにうだつがあがらない だから給料もあがらない 胸に描いた大きな夢も いつかどこかに置いて来た ああ、しっかりしなくちゃ もうすぐ三十2.近頃女房は色気ない そういう俺も体力ない 昼は会社でこき使われて 夜また女房に迫られる ああ、なんとかしなくちゃ もうすぐ三十五
3.若い奴らはだらしない 部長課長にゃ見る目ない 飲んで愚痴って酔っぱらて潰れ 出世はとっくに諦めた ああ、なるよになるのさ もうすぐ四十
4.家を建てるよな金はない 子供にかじらす脛もない 競馬競輪パチンコ麻雀 宝くじでもカスを引く ああこれが定めか もうすぐ四十五
5.脱サラやるよな根気ない 蒸発するよな勇気ない いっそ女に狂ってやろか女房の顔がまた浮かぶ ああ、どうにでもなれ もうすぐ五十
人生って長いな いやもうひと頑張り
この歌を聞いた時に、勝手な想像ですが、上岡龍太郎と言う人は、非常に知的な人ですが、お笑いの芸人です。この「不惑」のパロディを作詞したのではないかと、思いました。ことごとく、今回の『論語』の文章に対比しています。上岡龍太郎氏もすでに、孔子が亡くなった歳を越えています。今、五十五、六十、六十五、七十と作詞してほしいものです。
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さて、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文>
『子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩』。
●読み下し文
『子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず』。【為政篇2-4】
これは、もう現代文にする必要もないでしょう。年代に添って内容を見る事にします。
もうすぐ30ではなく、15才から始まります。
私は、天邪鬼なのか、独行道にしても、独行道のような生き方をした宮本武蔵を、思い浮かべるのではなく、武蔵がこのように生きたかった、あるいは自分が横道に逸れるのを、戒めるための自戒であったと思っています。
孔子も、15才から亡くなる前までの人生の懐古であったのではないかと、『現代人の論語』と同様の気持ちを持ちました。しかし、少し違うのは、回顧と共に、このように生きたかったという、気持ちもあったように思います。
15才の時に学に志したことはあったと思います。私はありませんが。しかし、「もうすぐ三十」の「いつかどかこに置いて来た」ことがないのは、上岡龍太郎氏の人生をみてもそうであるように、孔子も常に理想を捨てなかったと思います。しかし、「三十にして立つ」と言うのはどういう意味で言ったのでしょう。
孔子は『グラフィック版論語』の年表では、20才で委吏に就任し、翌年には司職吏(乗田吏)になる、とあります。前年には結婚もしていますし、一人前と言っても良いのではないかと思います。ですから、孔子の言う「立つ」と言う事は生活上の独立の問題では無い事が分かります。
では、30才での孔子は、洛陽に言って老子に教えを乞う、との記述があります。老子については諸説紛々として、実在の人物かも定かではありません。しかし、道教の祖とされていますし、老子の哲学、思想として現在も伝えられていますから、その影響は大きいものであったと、思います。
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ほんの少し老子についても、「老子道」(参考文献:石ノ森章太郎氏の知人から贈呈された)で知りましたが、その老子に教えを乞う人が、果たして「立つ」と言えたとは思えません。
さて、有名な「40にして惑わず」も、官職にもつかず、詩書礼楽の古典研究に没頭した時期で、弟子もどんどん増えた時代です。自分の生きる道は学問で、教育と思ったのでしょうか。
孔子は、51才の頃には国政の一翼を担う事になりますが、これが天命を知る事なのでしょうか。それから僅かの年月を経て、国を去り68才になるまでの長きに渡って遍歴する事になります。これが天命なのでしょうか。
ついに、70才を越えた孔子は、諦観の境地に達したのか定かではありません。
この孔子の人生を振り返った時、決してこの文章を人生訓として、素直に読む事は出来ません。しかし、そうありたいと願う気持ちは十分に汲み取る事ができると思います。宮本武蔵の「独行道」のように。私も同様に、そうありたいと、願います。
自分の人生を振り返った時、上岡龍太郎氏の「もうすぐ三十」の続きに、五十五、六十、六十五、七十と作詞するとしたら、
6.50、60は、鼻たれ小僧、65過ぎても、天命を知らず、70過ぎて尚、耳従わず、反論が口をついて出て、小心者ゆえに法を越えず、ああ、ただひたすら命つきるまで。
のような言葉になるのでしょう。字余り過ぎて歌にもなりません。
・委吏:穀物藏を管理する村役人
・司職吏:家畜の管理係
・乗田吏:牛羊畜牧の管理の小吏
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.
・石ノ森章太郎(1991) 『老子道』石ノ森章太郎萬画選集1.2 株式会社たま出版.)