「五輪書」から学ぶ Part-47
【火之巻】序

   【五輪書から】何を学ぶか?  

 今回から、原文については、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」の『武蔵の五輪書を読む、五輪書研究会版テクスト全文、現代語訳と注解・評釈』を引用する事にしました。

 理由は、史実に残る実物を、資料として研究され尽くされていると思うからです。

 ただし、現代文としての要約や、私見に対しては、『五輪書』佐藤正英著(2009-2011)  及び『五輪書』神子 侃著(1963-1977)も、参考にしながら、空手道の体験、並びに、社会経験を通して読み解きました。

 したがって、原文については、前回までのものより、読みづらいかも知れませんが、毛筆の原文をなるべく壊さないように表現されていると思いますので、参考にしてください。 

【火之巻】の構成

1. 火之巻 序
2. 場の次第と云事
3. 三つの先と云事
4. 枕をおさゆると云事
5. 渡を越すと云事
6. 景氣を知ると云事
7. けんをふむと云事
8. くづれを知ると云事
9. 敵になると云事
10. 四手をはなすと云事
11. かげをうごかすと云事
12. 影を抑ゆると云事
13. うつらかすと云事
14. むかづかすると云事
15. おびやかすと云事    
16. まぶるゝと云事
17. かどにさはると云事
18. うろめかすと云事
19. 三つの聲と云事
20. まぎると云事
21. ひしぐと云事
22. 山海の變りと云事
23. 底をぬくと云事
24. あらたになると云事
25. 鼠頭午首と云事
26. 将卒をしると云事
27. 束をはなすと云事
28. いはをの身と云事
29. 火之巻 後書
  
『原文』
1 火之巻 序 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用しました)
二刀一流の兵法、戦の事を火に思ひとつて、戦勝負の事を、火之巻として、此巻に書顕す也。(1)
先、世間の人毎に、兵法の利をちいさくおもひなして、或ハゆびさきにて、手くび五寸三寸の利をしり、或ハ扇をとつて、ひぢより先の先後のかちをわきまへ、又ハしなひなどにて、わづかのはやき利を覚へ、手をきかせならひ、足をきかせならひ、少の利のはやき所を専とする事也。我兵法におゐて、数度の勝負に、一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、刀のはむねの道をわきまへ、敵をうちはたす所の鍛練を得るに、ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也。殊に六具かためてなどの利に、ちいさき事、思ひいづる事にあらず。(2)されバ、命をはかりの打あひにおゐて、一人して五人十人ともたゝかひ、其勝道をたしかにしる事、我道の兵法也。然によつて、一人して十人に勝、千人をもつて万人に勝道理、何のしやべつあらんや。能々吟味有べし。さりなから、常/\の稽古の時、千人万人をあつめ、此道しならふ事、なる事にあらず。獨太刀をとつても、其敵/\の智略をはかり、敵の強弱、手だてを知り、兵法の智徳をもつて、萬人に勝所をきはめ、此道の達者となり、我兵法の直道、世界におゐて、たれか得ん、又いづれかきはめんと、たしかに思ひとつて、朝鍛夕錬して、みがきおほせて後、獨自由を得、おのづから奇特を得、通力不思儀有所、是兵として法をおこなふ息也。(3) 
【リンク】(1)(2)(3)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 1 火之巻 序

 二刀一流の兵法を火と思い、勝負の事を火之巻として、この巻に書き顕す。
 まず、世間では兵法の利点を低く評価するか、あるいは、小手先の利を知るか、扇を持ち肘より先の勝ちを言い、又は、竹刀などで、僅かの速さを競い、手をそれに合わせ、足を合わせ、専ら少しの利の速さを競い合い、手や足の動かし方を習って、速さのみを教える。
  我兵法においては、実戦で命を懸けて打ち合った体験から勝つ利を得て、刀の道を会得し、敵の打つ太刀の強弱を知り、刀の棟や刃の利点を弁えて、敵を討ち果たすための鍛錬を得たので、些細な事、弱き事などは考えない。特に武具で身体を覆い固めた時の勝つ利に、些細な事は考える必要がない。
 だから、命を懸けての打ち合いにおいて、一人で五人、十人と戦っても、その勝つ方法を確かに会得する事ができるのが我道の兵法である。
 しかるに、一人で十人に勝ち、千人で万人に勝つ事を道理とする事に相違はない。よく熟考すること。
 しかし、常々稽古の時に、千人万人を集めて練習することはできない。一人で刀を持っても、その相手により、智略を巡らせ、相手の強弱、手段を知って、兵法の理に適った方法で、万人に勝てる方法を体得する事で、この道の達者となる。この二天一流を体得する道を、世の中で自分以外の誰が得られるのか、自分が極めてやると誓って、朝錬夕錬して技を磨いた後に、自由自在の心と技を身につけ、自分でも思わない神通力を得る事ができる。これが、武士として当然の要である。

 『私見』

 前回までも、何度もルールという事に言及しましたが、江戸時代前後には、すでに、竹刀という稽古方法があった事に、驚きがありました。確かに思い木刀などでは、必ず止めないと大けがをし、二度と剣術の稽古ができない事もあったと、思います。

 空手でも、昭和40年ごろまでは、道場内の練習では、当てるのが当たり前だったような記憶があります。ですから、私が東京で入会した致道館(後に日本空手道致道会と改称)でも、入会した人達の中で一年後に残るのは、百分の一か、もっと少なかったかも知れません。
 続かなかった理由は、厳しかったこともありますが、怪我をして続けられなかった人も多くいたように思います。

 確かに、武術として開眼するためには、安全と言う壁が聳え立っているように感じています。もちろん現在の科学では、経済的な負担が解消されれば可能だと思っています。これは、防災の事でも同じ事で、ジレンマを感じずにはいられません。

 できれば、武術的な要素を消さないで、稽古できる方法を見つけたいものです。ただ、この「火之巻」の序で書かれてあるように、小手先の技では実戦に通用しません。甲冑を付ける以前に、人間は興奮するとアドレナリンがでて、通常の痛みは感じなくなります。
 折角鍛えた拳で、相手を制する事ができない事を想像すると、途轍もなく不安になるのではないでしょうか。
 少なくとも、ルールの中で稽古していると言う、自覚を持つ必要性を感じています。

 個人的には、空手の場合は、速さが一番相手を制する要素であるとは、思っています。しかし、次には、相手に当たった拳で、相手を制する事ができなければ、その速さは役に立ちません。

 型の演武における評価では、速さ、力強さ、バランス、緩急、リズムなどが上げられますが、私は、どれだけリズムが良くバランスが取れていても、相手の攻撃を受けられない守り、相手に当たって効かない攻撃であっては評価の対象にならないと思っています。

 それでも、審査や試合では、一概にスピードがないから0点と言う訳にもいきません。点数の付け方にも工夫がいるのではないかと、老婆心ながら思います。
 特に型における優雅さなど、必要とは思っていません。少なくとも、武道を修行している者から、優雅などと言う評価をもらいたくもありません。また、必要もない事です。

 なお、「是兵として法をおこなふ息也。」(原文)の兵を武士と意訳し、法は、ルール・規則ですから、当たり前の事、すなわち当然とし、息をコツ(要)と訳しました。兵も卒も武士ですから、武士として兵法を修行する事は、武士として当然の要であるとしました。このように訳すのが正解なのかは、全く分かりませんが、何となく、私はそのように感じました。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html