『十七条憲法』の内『礼と節』に関係すると思われる、十カ条を取り上げています。今回で五つの条の解明をしてきました。
すこし、『礼と節』が分かりかけたような気もします。
今日は第九条を取り上げて見ます。『真心』が大切であると言っているのですが、世の中に訓戒が数多くありますが、こういうシンプルな言葉ほど、中身を理解する事が難しいのではないでしょうか。あまりにも自明であり、知っていなければ恥、今更人に聞けない、などと言った気持ちが働くのも否定できないところです。
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松濤五条訓の各条にも、そんな言葉が散見できます。
第一条の『人格』、第二条の『誠の道』、第三条の『精神』、第四条の『礼儀』、第五条の『血気の勇』、ためらいもなく、分かったと言うような言葉ばかりです。しかし一つづつの言葉を、明確に説明できる人は、数少ないのではないでしょうか。
前回同様原文は、下記のバーをクリックすると見る事が出来ます。
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本日のテーマは、『十七条憲法』第九条です。
漢文は『信是義本 毎事有信 其善悪成敗 要在于信 群臣共信 何事不成 群臣无信 万事悉敗』
読み下しは、『信是義の本 毎事に信有るべし それ善悪や成敗は 信在ることを要する 群臣共に信あれば 何事か成ら不ん 群臣信无くば 万事悉く敗れる』としました。
現代文は、『信は道理の基で、何事にも信が有る必要がある。善悪、正否には信があるかないかである。群臣共に信があれば、何事も成就できる。群臣に信が無ければ、何をしてもことごとく失敗する。』このように訳して見ました。
冒頭でも記述しましたが、ここに出てくる「信」もその一つです。儒教が説く五つの徳目で、五常とか五徳と言われる仁・義・礼・智・信の中の「信」を指します。
日本の書き言葉は、概ね漢文から来ていますので、当時は「信」と言えば自明だったのでしょう。時代を経て、日本特有の漢字や語彙が増えていくと、本来の漢字の意味自体を喪失してしまいます。また、漢字も簡略化されたり、違う漢字と置き換えられたりして、専門家でない限りよく分からないのが現状です。
分らなときは、辞書を引く方が良いでしょう。そこで、「信」を探して見ましょう。家の中にある大辞林で調べて見ますと、
1.あざむかないこと。いつわらないこと。忠実なこと。まこと。儒教では五常の一つとされる。
2. 疑わないこと。信頼すること。信用。
3. 宗教に帰依すること。また、信仰する心。信心。
(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
この中の「まこと」という言葉は、真・実・誠のどの漢字も『まこと』と読めます。松濤五条訓にも「誠の道」と言う言葉が見られますが、「信」とは、『ウソをつかない心』、人を騙したり、欺いたり、疑ったりしない生き方の事を言っているように思います。これを「真心」、「真実の心」、あるいは「誠実」と言っていると思います。
そこで、『信』を『真心』として見ます。そして、もう一度、現代文を要約すると、『真心は人の言動の基軸でなければならない、だから何事にも嘘偽りがあってはならない。善いことや悪いことも、あるいは、正しい事、間違っていることを判断する時にも、その根底に真心があるかないかで判断できる。権力のある者も、それに従う者も、共に真心があれば、何事も成就できる。また、共に真心が無ければ、何をしてもことごとく失敗する。』こんな読み方をしてみました。
私は、ものが分かるという事を、 「五輪書」から学ぶ Part-45に書きましたが、『理解力・咀嚼力・表現力』と言う三つの過程を経てようやく『わかった』と言えると思っています。
教養のある人は、漢文を読んだ時点で理解できるのでしょうが、知識も教養も、「いまひとつ」の私は、こうして意訳してみないと、なるほどとは思えません。しかし、これを自分の断片的な知識と照らし合わせ、経験を思い浮かべ、腑に落ちるまで納得した上で、習慣にして、初めて『わかった』と言えると思っています。
「嘘をついたことなど一度もない」と言う『嘘』、と言う通り、油断すると人間は、嘘をつき、人を欺き、騙す性質を持っているように思います。これも、『礼節』に欠ける事になると思います。
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同じ嘘でも、『嘘も方便』の嘘には、相手を思う心があると思います。この場合は『礼節に欠ける』とは言えないでしょう。
しかし、この相手を思う心にも、『信』が必要です。独りよがりの思う心は、『小さな親切大きなお節介』になりかねません。また、『信』や「道理」とよべるほどの教養も身に付けたいものです。
『礼節』と言うのは、受けるのも難しいし、行動に起こす事も難しい事です。『作法』が出来るようになったからと言って、『礼節』があると思わない事ですね。
それでも、最近のニュースでよく見かける「ストーカー」をする人などは、自分なりの『信』、すなわち嘘偽りのない気持ちがあるのでしょう。ただそれが行き過ぎているのだと思います。過去には猟奇小説になるような事件もありました。
もちろん、これは病気と呼ばれた方が良いのだと思いますが、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』で、『礼節』も下の図に掲げた節度の壁を越えないようにしたいものです。
(この図は日本空手道髓心会ホームページの『礼と節』の項目内で自作したものです)