文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【212】

 今日の文字は『らい』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百十一段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る

 

☆『北海道のけが人3人に』
(共同通信社 2019/02/22 06:04)

北海道苫小牧市消防本部によると、21日夜の地震で、市内にいた30代男性と40代女性が避難中に転倒し、頭などに軽傷を負った。道内で確認された負傷者は計3人で、いずれも軽傷。
 
 まず、負傷者が少なく、そして軽傷であったことに安堵しています。本当に地震列島ですね。対岸の火事とは思えません。いつ自分の住んでいる地域に地震が起こっても不思議ではないのが日本と言う国なんでしょう。

 これだけ科学が進み、文明は50年前とは比べようの無いほど発展したと感じています。であれば、自然災害の予防にもっと力を入れる事も出来るのではないでしょうか。その為には政治の力が是非必要だと思います。

 現在の政権を壊すのが目的の野党に、その価値を見出す事ができません。政権を取らなくても、良い物は良い、悪い物は悪いと言う事が野党の使命ではないのでしょうか。悪いと言うのであれば、どうすれば良くなるのか、提案する事に野党の存在意義があると思うのですが。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百十一段 〔原文〕

 よろずの事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。

 いきおひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて頼むべからず。顔囘も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅をうくる事速かなり。奴したがへりとて頼むべからず。そむき走ることあり。人の志をも頼むべからず。必ず變ず。約をも頼むべからず。まことあることすくなし。

 身をも人をも頼まざれば、なる時はよろこび、非なる時はうらみず。左右 廣ければさはらず。前後遠ければふさがらず。せばき時はひしげくだく。心を用ゐること少しきにしてきびしき時は、物にさかひ、爭ひてやぶる。ゆるくして柔かなるときは、一毛も損ぜず。

 人は天地の靈なり。天地はかぎるところなし。人の性 何ぞ異ならん。寛大にして窮らざるときは、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。

 

『現代文』

『万事について頼んではいけない。愚かな人は、深くものを頼むために、怨み怒ることがある。

 勢力が盛んであっても頼んではならない。強い者がまず滅びる。財力があるからと言っても頼んではならない。時が経つと失いやすい。才能があるかと言っても頼んではならない。孔子も不遇であった。徳があっても頼んではならない。顔回も不幸であった。君主からの寵愛を頼みにしてはならない。罪あるものとして殺される事もある。家来が従順であっても頼みにしてはならない。離反する事もある。人の志をも頼みにしてはならない。必ず変わる。約束も頼みにしてはならない。信頼できる事は少ない。

 自身も他人も頼まなければ、良い時に喜び、良くない時も恨まない。左右が広ければ妨げられない。前後が遠ければ塞がらない。狭ければひしゃげて砕ける。心が行き届かずゆとりが無ければ、物に逆らい、争って傷つく。寛大で柔軟であれば、きわめてわずかなことも損なわない。

 人は天地の魂である。天地は限る事がない。人の性はこれと何も違わない。寛大にして行き詰まらない時は、喜びも怒りも心を乱さず、物の為に煩わされる事はない。』

 

 

『頼』

 よくこれだけ、例を挙げたものだと思います。しかし、これは、反って言いたい事の主旨がぼやけてしまう事にもなります。

 初めの一行で止めて置けば、読者が色々な事に遭遇した時に、なるほどと合点してもらえると思いますが、これでは口を挟みたくもなります。

 兼好法師が言った事だと思う事にしますが、徒然草を読んでいて、すんなり納得できないのは、こういう例の挙げ方にあるのではないでしょうか。

 案外兼好法師は、調子に乗るタイプかも知れません。過ぎたるは猶及ばざるが如し、と言う言葉そのもののような気がします。

 言葉を少し考えて見ましょう。

 「勢力が盛んであっても頼んではならない。強い者がまず滅びる。」
 ここでは、「驕る平家は久しからず」の譬えだと思いますが、これは驕りを警戒するためのものであって、けっして頼っているものでもないと思います。

 「財力があるからと言っても頼んではならない。時が経つと失いやすい。」
 これも、決して財力に頼っているものではなく、贅沢三昧することの愚かさが時と共に衰退していくのでしょう。

 「才能があるかと言っても頼んではならない。孔子も不遇であった。」
 孔子が不遇かどうかは、孔子が思う事であり、他の人が評価するべきものではないと思います。

 「徳があっても頼んではならない。顔回も不幸であった。」
 顔回は不幸と思ったのでしょうか。前のブログで顔回の事も取り上げていますが、他人が勝手に不幸とする必要もないほど、顔回は納得した人生を送ったと思っています。

 「君主からの寵愛を頼みにしてはならない。罪あるものとして殺される事もある。」
 確かに上の者に気に入られようと、もがいている人が多くいる事は事実です。上に立つ者の中には、自分にすり寄って来る人を引き上げようとする人もいます。しかし、これは人の上に立つ値打のない人と言っても差し支えないでしょう。上に立つ者の役割は広く世の中の動きを見定める事ができる人でなければなりません。

 「家来が従順であっても頼みにしてはならない。離反する事もある。」
 人が離反したり裏切ったりするのは、往々にして上に立つ者が悪い場合があります。もちろん、出世欲が強く人を踏み台にして上に行こうと思う人も中にはいます。けっして、家来を信頼しているから離反する分けではありません。

 「人の志をも頼みにしてはならない。必ず変わる。」
 確かに物事に変わらない事は無いでしょう。「諸行無常」の世界です。しかし、人は志を立て、それに向かっている時に、思う事は達成することです。決して挫折するために志を立てているのではありません。必ず変わると思って志を持つ事はありえません。

 「約束も頼みにしてはならない。信頼できる事は少ない。」
 人との約束事を、信頼できない人と約束を交わす人もいないでしょう。確かに約束を平気で破る人がいるとは思います。ですから現在では契約書を取り交わし、それを破ると罰せられるのですから。

 「頼む」と言う意味合いが、これらの事を含んでのことなら解りますが、私の古文を読む力では、そこまで「頼む」と言う言葉を、広げて解釈する事はできませんでした。

 ここまで人を信頼しないで、孤立無援の生活をする人であれば、確かに人を傷つける事もなく、そしてまた自分も傷つかずに済むかも知れません。

 しかし、人間は社会的な動物である事を考えないで、人類はここまで生き残ってこれたのでしょうか。

 出家とか、遁世を否定するものではありませんが、あくまでも社会の異端児としての立場を貫かれた方が良い。私はそう思っています。そういう孤立した人たちは、あくまでも少数である事に価値があると思います。そして、別の次元から、別の立場からアドバイスされるのであれば、その価値も高くなると思っています。 

 原文の最後の言葉『人は天地の靈なり。天地はかぎるところなし。人の性 何ぞ異ならん。』にも、私には理論的とは思えない展開が見られます。

 まず大前提になる、『人は天地の靈』であると言うのは、兼好法師の信じるものだと思います。誰もこれに疑いを持つ人がいない時代であったのでしょう。しかしこれは立証する事は出来ないのですから、信頼の域を出ていません。信頼と言う言葉を使いましたが、信心と言う意味で使いました。

 次の『天地はかぎるところなし』も、天は未だにはっきりと無限とは証明されていませんし、地においては、すでに有限である事は明白な事です。これは、時代によって解き明かされている事が違いますので、これを信じてもしかたのない事でしょう。しかし、発端はこのことわりを信じ頼りにする事から始まっています。

 そして、なぜ、『人の性 何ぞ異ならん』と展開出来るのでしょう。まるで、「鳥は二本足で歩く、人間も二本足で歩く、だから鳥は人間である」とでも言っているように思います。

 文章の脈絡は兎も角、この段の主旨を全面的に否定するものではありません。

 兼好法師も仏法を信頼してしまったように、人間は何かに拠り所を見つける生物なのでしょう。

 であれば、性善説のように言うと、性頼説とでもいいましょうか、人は信じる、そして、頼る動物である事を前提としましょう。

 だからこそ、何事に対しても、思うままに事が運ばない事に出くわすと、意に反する訳ですから、裏切られたとか、期待に反するとか思い、心が傷ついてしまうのでしょう。

 確かに、人は自分の理想とする立ち振る舞いを人に求めます。ですから、原文の初めの一行にあるように、『愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。』と書かれてあるような心境になるのでしょう。

 これは、友人知人に限った事では無く、妻や夫、あるいは恋人に、そして部下にも同じように、信頼と言う言葉に包み隠されて、自分の勝手な思い込みを閉じ込めてしまいます。

 この勝手な思い込みから来る、多種多様の自分の考えとは違う結果を、人は裏切りと感じてはいないでしょうか。

 そう言う意味では、ここに書かれてあるような、全て信じる事、頼る事を自制する気持ちも理解できます。

 しかし、私なら、信頼する事を止めるよりも、自分の勝手な思い込みや、自分で人の振る舞いにレッテルを貼る事を、止められるよう、努力したいと思います。