文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【185】

 今日の文字は『倹約けんやく』です。書体は行書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百八十四段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 倹約

 

☆自家製簡単ドリアのレシピ 2人分

 ただし、これには、ビストロがいります。もちろんオーブンでもOK、ですが家にあるのは、ビストロだけです。ちなみに、ビストロと言うのはパナソニックのスチームオーブンレンジの事です。
 オーブンの場合は、200度に予熱したオーブンで約15分で出来るそうです。ほとんどグラタンと一緒です。

  1. 用意する物
    (1)小麦粉(薄力粉or強力粉)【大さじ2杯】
    (2)バター【1個分】給食に出てくる位の量
    (3)牛乳【200CC】
    (4)ガラスープの素【小さじ2杯】
    (5)塩こしょう【少々】
    (6)粉チーズ【少々】
    (7)ご飯【お茶碗2杯】余り物で十分です。
  2. 具材
    (1)玉ねぎ1/2個みじん切りにしておく。☆少しだけ残して細い半月切り。
    (2)鶏肉、1cm角程度に切る。
    (3)その他入れたいもの、例えばエビとかホタテとかマッシュルーム。
  3. 作り方
    (1)ボール(何でも良いが300CC位が楽に入る入れ物)に小麦粉を入れる。
    ☆この順序が大切。間違うとだまになる。
    (2)(1)に牛乳を少し入れてかき混ぜる。だまにならないように全部牛乳を入れる。
    (3)(2)にガラスープ(私はyoukiのガラスープ)を小さじ2杯を入れる
    (4)フライパンにサラダ油を引いて熱してから、弱火にして、玉ねぎを入れる。
    ☆少しだけスライスしたものを残して置いて、みじん切りの玉ねぎだけ先に炒めた方が良い。
    (5)鶏肉と他の具材を入れて、かき混ぜる。
    (6)そんなに炒めなくても良い。具材は最後に中まで火が通る。
    (7)フライパンに(1)(2)(3)で作ったスープを入れてかき混ぜる。
    (8)ご飯を入れて良くかき混ぜる。
    (9)器に移して、上に粉チーズをまんべんなくかける。
    (10)ビストロのグラタンにメモリを合わせて、出来上がるまで待つ。

 出来上がれば、食べるだけ、器が熱いので、私は鍋敷きを敷いています。味付けはごくあっさりしています。好みによりガラスープの素や塩コショウで調整して下さい。ホワイトソースの作り方が分れば、グラタンもクリームパスタもドリアも簡単に出来ます。作り方の(1)(2)(3)の順序通りやるとだまにならずにできます。これがポイントです。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百八十四段 〔原文〕

 相模守時頼の母は、松下禪尼とぞ申しける。守を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから、小刀して切りまはしつゝ張られければ、兄の城介義景、その日の經營けいめいして候ひけるが、「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たるものに候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とてなほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はんは、遙かにたやすく候べし。まだらに候も見苦しくや」と、重ねて申されければ、「尼も、後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理しゅりして用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけん爲なり」と申されける。いと有り難かりけり。

 世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ。

 

 

『現代文』

『相模守時頼の母は、松下禅尼と言われる。相模守を招いて話される事があった時、よごれた明障子あかりしょうじの破れた所だけ、禅尼自ら、小刀で切っては張っていた所、兄の城介義景が世話・接待をしたり準備をしたりして、忙しく立ち働いていたが「お預かりして、そのような事に心得のある男に張らせましょう。」と言われたが、「その男、尼僧より手先の器用さが勝っているということはないでしょう」と言い、なお一間づつ張られるのを、義景「全部一度に張り替えた方が遥に簡単ですし、まだらになるのも見苦しくはないですか」と重ねて言われたが「尼も後でサッパリと張り替えようと思いますが、今日だけは、わざとこのようにしておくべきです。物は破れた所だけ修理して使う事を、若い人に見せて覚えさせるためです」と言われた。まことにおそれ多いことであった。

 世を治める道は、倹約が基本である。女性でも、聖人の心に通うものがある。天下を保つほどの人を、子に持たれるのは、誠に、普通の人ではなかった。』

 

 

『倹約』

 そうかなぁ、と言うのが感想です。倹約と言う事に反対する分けではありません。そのやり方に疑問を感じています。

 人の上に立つに人には、こういう人が多いのは認めます。私から見ると浅はかと言うのか、人は自分より馬鹿だと、本気で思っているのでしょう。

 残念ながら、こういう事を、流石だと思う人がいる事も事実です。

 『まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ。』と言っているのが兼好法師であるとしたら、あんまり大した人でもなさそうです。

 で、私がこういう人を認めない理由を書いて見ます。

 『「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」』と言うような自信家の部分ではありません。

 私が問題にしたいのは、『「尼も、後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理しゅりして用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけん爲なり」』と言っている所です。

 誰かに物を教えるのに、通常している事を教えてこそ、教えられる方も納得できると思います。「背中を見せて教える」ようにです。付け焼き刃なら兎も角、教えるためにだけ、これ見よがしに、その場だけ取り繕われても、信用出来ません。

 しかし、意外とこういう人はいます。自分の方が何の根拠もなく賢いと勘違いしている人です。

 例えばこの場合などは、若い人が次に見る機会があれば、なぜ全てが張り直してあるのか不思議に思うでしょう。だとしたら、ちょっと気をまわして考えれば、わざと倹約したと悟られるのも時間の問題です。

 いわゆる「上手の手から水が漏る」と言う事です。この場合は「上手」と勝手に自分を評価している場合ですが。

 意外とこういう人がいる、と書きましたが、人の上に立つ人に多い事も、今まで何度も目にしています。ようするに勘違いです。

 下の人が立場上、分かっていても同意せざるを得ない事に気が付かないのです。「裸の王様」そのものです。

 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言われている、元になる言葉「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」のように、常々私が思うのは、「人の上に立つ人は、人間的にも優れた人であるべきと願われるべきである」と。