この講を知るためには、ここに出てくる子貢について、少し知っておく必要がありそうです。
紀元前521~456年に生存した人とあります。孔子の生誕が紀元前551ですから、孔子より30歳年下です。そして、孔子は紀元前479年に亡くなっていますので、孔子が亡くなってから23年後に亡くなっています。
子貢の事を知るために、『論語』を調べていますと、『季康子問、仲由可使従政也与、子曰、由也果、於従政乎何有、曰、賜也可使従政也与、曰、賜也達、於従政乎何有、曰、求也可使従政也与、曰、求也芸、於従政乎何有』(雍也篇6-8)と言う白文を見つけました。
読み下しは次のようになります。
『季康子問う、仲由は政に従わしむべきか。子曰く、由や可なり、政に従うに於いて何かあらん。曰く、賜は政に従わしむべきか。子曰く、賜や達なり、政に従うに於いて何かあらん。曰く、求は政に従わしむべきか。子曰く、求や芸あり、政に従うに於いて何かあらん』
ここで、「賜」は、子貢の事です。姓は端木、名は、賜、子貢は、字です。他の登場人物を調べて見ました。まず、最初に出てくる季康子と言う人は、魯と言う国の重臣。名は肥。父の季桓子と孔子とは、定公のもとで同僚でした。仲由は、何度も登場しますが、子路の事です。姓は仲、名が由。最期の求ですが、冉有と言って、姓が冉、名が求、字が子有です。
意訳をして、内容を見て見ましょう。
『魯の重臣である季康子が、子路は政治に向いているだろうか、孔子は子路は決断力があります。では子貢はどうですか。彼は緻密な男です。求はどうか。かれは多才な男です。と、三人とも政治に向いている事を伝え、季康子の問いに答えました。』
また子貢と言う人物を知ることができる文章が『論語』(為政篇2-13)にありました。白文は『子貢問君子、子曰、先行其言、而後従之』です。
内容は、子貢の悪い所を優しく諭している文章だと思います。要するに、口先ばかりでなく、やる事をやって、結果を出してから、言いなさい。と言ったところでは無いでしょうか。
前に出てきました、公冶長篇5-4にありましたが、子貢は孔子に『女器也』「なんじうつわなり」と言われる件がありました。
同じ公冶長篇5-9では子貢の謙虚さが現れる所もあります。白文は『子謂子貢曰、汝与回也孰愈、対曰、賜也何敢望回、回也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾与汝弗如也』です。
『礼と節』を表現してみよう。 Part-29に書きましたが、「一を聞いて十を知る」基になつた『論語』の文章です。
内容は『孔子に、顔回とどちらが優れているだろうか?、尋ねられた子貢が、「一を聞いて十を知ることのできる顔回にとても及びません」と答え、孔子も、「私も、子貢が顔回に及ばないのと同様だ」』です。
他にも子貢についての記述がありますが、少しまとめますと、子貢は謙虚さはあり、賢い人ではあるが、知識に走る傾向があるように思います。
この講では下の漢字がコンピュータにより変換できない場合がありますので、イメージ化しました。 【八いつ篇】の〔いつ〕も環境依存の漢字です。下のように書きます。
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さて、漢字を知った上で、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子貢欲去告朔之〔食気〕羊、子曰、賜也、汝愛其羊、我愛其礼』。
●読み下し文
『子貢、告朔の〔食気〕羊を去らんと欲す。子曰く、賜や、汝はその羊を愛む、我はその礼を愛む』。【八いつ篇3-17】
読み下し文から、その内容を見る事にします。
その前に、まだ分らない言葉がありました。「告朔」について調べて見ます。
『古代中国で、諸侯が天子から受けた新しい年の暦を祖先の廟 (びょう) に納め、毎月1日に羊を供えて廟に告げ、その月の暦を国内に施行したこと』。(出典:デジタル大辞泉 小学館.)
また、「告朔の〔食気〕羊」と言う言葉が、辞書にあります。
『告朔の儀式に供える羊の意。儀式の意義が失われ、羊を供える形式だけが残っていたが、虚礼でも、害がなければ儀式だけでも残すのがよいとした孔子の故事。また、実を失って、形式ばかりが残っているたとえ。』(出典:大辞林第三版 三省堂.)
すでに、『論語』の「告朔の〔食気〕羊」と言う言葉が、「形式ばかり残っている」という意味で使われているようです。
ですから、子貢が、こんな形式ばかりの儀式は、羊がもったいないから、取りやめた方が良いと提案すると、孔子は「子貢は財政の面から羊を惜しんでいるが、私は過去からの伝統である儀礼を廃止する事を惜しむ」と言った内容です。
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これは難しい問題です。儀礼や儀式と言うものは、現実と照らし合わせると、本当に無意味にしか見えないものがあります。一番の問題は、本当に昔から伝統的に継承されてきたのかも、定かではない儀式が増えてしまっている事だと考えています。2500年前の事は分かりませんが、今の儀式や儀礼を見ますと、そう感じる事があります。
名の通った神社やお寺などで行われているものには、それなりの理由があり、納得できるものも多いと思いますが、時代に合わせて、人を集めるための儀礼や儀式もあると思っています。
2500年前の事は分かりませんが、子貢が、食べる分けでは無いのに、生きた羊を殺す事に、無駄を感じても不思議ではありません。当時は生贄と言う儀式は世界中どこにでもあったと思います。
私はこのように合理的に物事を判断して、「不易流行」を考えて、取捨選択して行くのが、人間の歴史だと思っています。
ですから、儀礼や儀式には敬意を払いますが、それが無くなったからと言って、孔子のように『我愛其礼』「我その礼を愛む」と言った感情は湧きません。「独行道」(宮本武蔵)の【仏神は貴し仏神をたのまず】に似た感情です。
それでも、若い時には、儀式に固執した時期はありました。その通りにしない人を軽蔑した気持ちも湧いた記憶があります。
先日世間を驚かした、門前仲町の富岡八幡宮の隣にある、成田山深川不動堂にお参りした時、一緒にいた会社の同僚が、大きく柏手を打った時には、流石に、小声で注意した事がありました。もう、20年も前の事になります。
儀礼や儀式は、その方法を知らないと、「礼」を欠く事になりますから、マナーと同じように、知っておく必要はあります。
しかし、その儀礼や儀式が永遠のものとは思っていません。良いとか悪いとかではなく、時代によって変化していくのが、自然なのだと思っています。
ただ、無暗に変化させるのではなく、状況に合わせてバランスを取る事も、人間の智慧ではないでしょうか。
【ことばの意味】
・不易流行:蕉風俳諧の理念の一。俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こそ「不易」の本質であるということ。(出典:大辞林第三版 三省堂.)
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。(出典:新明解国語辞典 三省堂.)
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.