論語を読んで見よう
【衛霊公篇15-42】
[第二講 文化を継承する者]

 『論語』を20に分けている事もありますが、その場合今回の衛霊公篇は15番目の綴りになります。その42番目の一文です。

 『現代人の論語』の著者がつけたタイトルは「文化を継承する者」になっています。この文化とは何を意味するのかを知る必要があります。時代背景を知らないと意味が不明な場合があります。紀元前500年前後も前の話ですから、今から2500年も前、聖徳太子の時代を遡る事1000年です。その時代に文化と呼べるものがあった事に驚いています。孔子に馬鹿にするな、と言われそうです。
 
 ここで文化と言われているのは、音楽の事だそうです。この文からどのような楽器の演奏をするのか、又は歌を歌うのかは分かりません。

 しかし、この人を音楽師と呼んでいます。名前は冕(べん)、この人に師を付けて呼んでいます。しかも、参考文献に書かれてありますが、文面からもこの冕師、目が見えない事が読み取れます。

 孔子は、どのようにこの冕師に応対するのでしょうか。やはり、参考文献から白文と読み下し文を引用してみましょう。

白文「師冕見、及階、子曰、階也、及席、子曰、席也、皆坐、子告之曰、某在斯、某在斯、師冕出、子張問曰、与師言之道与、子曰、然、固相師之道也、。」
読み下し文「師冕(
しべん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及ぶ。子曰(のたまわ)く、階なり。席に及ぶ。子曰く、席なり。皆(みな)坐す。子これに告げて曰く、某はここに在り。某はここに在り。師冕出ず。子張問いて曰(いわ)く、師と言うの道か。子曰く、然り。もとより師を相(たす)くるの道なり。」(衛霊公篇15-42)

 読み下し文で分かるかも知れませんが、もう少し意訳を試みます。
 音楽家の冕(べん)師が来ました。孔子が案内して皆の所に付き添います。階段の所まで来ると、階段ですと気を使います。そして座る場所に案内して席である事を告げます。そして皆が座っている事も案内します。そこに居る人も一人づつ紹介します。そして音楽が終わり冕師が帰ります。弟子の子張が孔子に質問します。音楽師をなぜそこまで丁重に扱うのですかと。孔子はその通り、音楽師の手助けをするのは当たり前の事です。
 この文面からどのような音楽をするのか分からないので、「音楽家」としましたが、演奏家をイメージする方が分かりやすいかも知れません。

 

 私からすると、ごく自然で何の疑問も持ちませんが、時代の背景や、子張という弟子の育ちや性格によっては、そのような質問がくるのかも知れません。 

 この子張と言う弟子は、私から言わせると、非常に恥ずかしい質問を平気でする教養のない人に見えます。それとも、時代の背景が目の悪い人に対して差別的であったのでしょうか。   

 子張について、『子張、禄を求めんことを学ぶ』これを孔子がたしなめるという話もある(為政篇2-18)と書かれてありますが、ここで参考文献には為政篇2-18の全文がありませんので、調べて見ますと、白文では『子張学干禄、子曰、多聞闕疑、慎言其余、則寡尤、多見闕殆、慎行其余、則寡悔、言寡尤行寡悔、禄在其中矣。』とあり、これを私なりに読み下す事にします。

『子張、禄(ろく)を干(もと)めんとして学ぼうとしている。子曰く、多く聞いて疑わしいことを捨てて、慎んで疑わしくない事を言えば、後悔する事が少なく、多く見て疑わしきを破棄し、慎みてその余りを行えば、則ち悔い寡(すく)なし、言に尤(とがめ)寡(すく)なく、行(こう)に悔寡なければ禄はその中にあり。』
 意訳を試みます。『子張は財を得ようと学んでいる。まず沢山見聞きして疑わしい事は捨て、慎んで正しい言動をすれば後悔することも少ない。そうすれば、財は結果として得る事ができる』。随分雑な読み下しと意訳をしましたが、当たらずとも遠からず、こんな感じだと思います。
 この文章を見ると、私が子張を酷評した事が当たっているように思われます。まだまだ出来の悪い弟子の質問だったのでしょう。

 参考文献では、白川静著『孔子伝』(中公文庫)からの引用で「聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である」。同じく、『字通』(平凡社)では、聖の字に耳が入っていることに注意をうながしている。と但し書きがしてありますが、今回のテーマとの関係が俄かには分からない所です。
 
 仮に盲目であってもなかっても音楽をする人は、神の声を聞きうる人であるから、聖人と言えるという論法であれば、納得はできますが、それならもう少し引用の仕方があるのではないかとも思えます。

 『現代人の論語』に書かれてあるような、聖と瞽(めしい)との関係があるとは思えませんし、孔子が当時から聖人と認められていたとしても、音楽が好きだという事は理解できますが、孔子が神の声を聞きうる人であるからと言って、目の不自由な人への配慮との直接的な関係は見いだせないと思います。
 もう少し穿った見方をするとすれば、聖人である孔子は、神の声を聞けるので、盲目の音楽演奏家の演奏から神の声を聞いたのかも知れません。
 とすると、神の声を聞かせてくれる音楽師だから、盲目であっても丁重に扱った事になります。

 はたして、孔子はそんな心の狭い人だったのでしょうか。何かの理由があって障害者への配慮があるとしたら、聖人とは言わないと思うのですが。如何でしょう。

 私は、もっと単純に、人として目の悪い人に手を差し伸べたり、気遣いをするのは、ごく自然な行為だと思います。ですから、時代背景が芸事に対して差別的であったのではないかと推測してしまいます。日本でも芸能者が文化の継承者として認識されるまでには、相当の時代を経てきていると思います。

 時代は遥に現代に近いですが、琵琶法師にしても瞽女(ごぜ)にしても、今では立派な文化としてその地位を築いた歌舞伎にしても元は、差別的な扱いを受けた歴史があったと思います。ですから、一般的には文化継承者として高く評価する事がない中で、孔子は『楽』を高く評価の上、丁重に扱ったのかも知れませんが、このような理由で親切にするとか、しないとかの区別は孔子には似合わないと思います。

 孔子は、当然の行為として冕(べん)師に対して『礼』を顕したに過ぎず、この事を不思議に思った子張に対して『子曰く、然り。もとより師を相(たす)くるの道なり。』と一喝したように思えます。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.