【教育はビジネスか・・】 |
「好きか嫌いか言う時間」俳優の坂上忍さんが、MCのTBSの番組です。昨日が最終回だったみたいで、テーマは教育の仕方でした。
番組の主旨が、どちらも正しいとは言えないので、「好き嫌い」で世相を反映させようというものらしいです。結構おもしろかったのですが、最終回になってしまいました。
昨日は、職場での「甘すぎる教育か厳しすぎる教育か」に対して「好き嫌い」を言うことでした。その中でゲストの一人樋口弘和氏(人事採用コンサルタント)が、「会社と個人が対等な時代」と言われていましたが、社会人のみならず、家庭でも学校でも、戦後同じ事が言えるのではないでしょうか。
その範囲はちっぽけなものですが、私も一部の人から先生と呼ばれています。もう、40年以上も前の事ですが、道場を始めた頃は、生徒や親から尊敬されたい、憧れてもらいたい、と言う思いが強くありました。
何がキッカケになったか失念してしまいましたが、お金を貰って教えるという事は、結果がでないと、お金を払う価値がないだろうと、思い始めていました。その時から、主客逆転しました。主役は自分から生徒に移って行ったのです。
それから、勉強嫌いの私が、人並みに勉強しないといけないと思い、まず初めに取り掛かったのが、「脳」について、その仕組みと役割を知る事でした。自分が教えた事が、どのように伝わっていくのかを知る事で、教えられた人が、それを吸収し自分のものに出来るだろうと思ったのです。
それでも、教える事に一生懸命になればなるほど、生徒を叱る事は、増えました。しかし冷静に考えれば、それは自分の教え方のレベルの低さが原因ではないかと思ったのです。
「生徒と先生の関係」については、自分が受けた教育とは違い、時代の流れなのかドンドンと、教育の中でも対等という考えに変わり、その矛盾に悩まされたものです。時代と共に先生やお医者さんが、聖職からビジネスマンになり、いつの日かギブ・アンド・テイクが当たり前の時代に変わってしまったのではないでしょうか。ましてや、一時騒がれた、モンスターペアレントなどが言われ始めると教育って何んだろう、と思ってしまいます。
番組の中で尾木ママ(尾木直樹氏)の発言の中で、叱ると、叱られた方は一生悪い記憶が残ると言う意味の事を言われたと思うのですが、私は小学校の頃から高校を卒業するまで、先生に殴られ続けました。道場でも一か月耳なりが消えないくらい殴られました。毎日ではありません、時々ですが。同じ仲間の中には恨みに思う者の方が多かったかも知れません。一方私はと言うと、全く恨みに思ったことはありませんし、恐怖感を持ったこともありません。それが良いのか悪いのか、考えたこともありません。そんなものだと思っていました。
また、尾木ママいわく、外国を対象に生産性の問題を挙げて、だから日本はだめなんだと、言います。これに対して、ゲストの経営者は、そんな教育を受けてこない人が、社会にでて教育をしなければならないのは会社である、といいます。理想を語る事は優しいですが、これが現場の声ではないでしょうか。
経営者はつづけて、会社の目標は会社が決定すると言うと、それがいけないと、尾木ママはいいます。個人で決めさせるのが正しい。と断言します。教育の場と会社経営を混同してはいけないでしょう。私はそんな風に聞いていましたが、番組の意図が見え隠れし、最終回にも拘わらず、ガッカリしました。
この番組のつくり方なのでしょうが、出演者の発言は、両極端過ぎるのではないでしょうか。現に若い人が、どちらの教育方法が好きか嫌いを判定すると、27名対23名(50名対象)でした。
それでも、自分が叱られるのが嫌な人が、叱る人から教育を受ける状況になると、そのストレスは相当のものになるでしょう。
何かを習得するには、やはり教育を受けなければなりません。教育は人から人への伝達ですから、受ける側と伝達する側のルールが必要なのかも知れないと思っています。時代が変わればルールを変えなければならないのかも知れません。
「会社と個人が対等な時代」に適した教育方法については、色々な意見があるとは思います。私が気を付けていたことは、自分が頭にきているとき、すなわち冷静な判断が出来ない時は、怒らない。もちろん、叱るというのは、タイミングが大切ですが、それを逃しても、次の機会を待つ。目的は、相手を導くためですから。相手に届かない環境では、届けない。こんな事を考えて実行していました。
それでも、「瀉瓶」は教育の原点だと思っています。受ける側が受け入れ態勢を取らなければ、いくら、教育熱心でレベルの高いスキルを持っていたとしても、教育という関係は、成立しないものだと思っています。
本来は、お金というものが、介在しない関係が一番良いのかも知れません。お医者さんと患者の関係もそうです。しかし、お医者さんも、何かの先生(教育者としての)も、生きていかなければなりません。
もしも、私が生徒の立場であったら、確か歎異抄に書かれてあったと記憶するのですが、「たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もない」という、一種の親鸞のような覚悟が必要なのかも知れません。またその覚悟に答えようとするのが先生の覚悟かも知れません。
【言葉の説明】
・ 瓶びんの水を他の瓶にうつしかえる意〕 仏教の奥義を師から弟子にもれなく伝えること。写瓶相承。[出典]『大辞林 第三版』三省堂.