動作はきびきびする方が、好感がもてます。だからと言って、慌ただしく動くのは、品を欠きます。と言っても、ゆっくり過ぎるのも良くありません。緩慢に見え、やる気が見えないし、覇気がないと評価されます。
この場合も、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」丁度良い、節度と節度の間に収めるようにした方が良いでしょう。
ここで、考える事は、しきたりや作法で昔から伝えられた事ではありません。時代時代で変化する常識と言っても良いと思います。
『礼節』と言うのは、社会的な生活を営むために、人間が生み出した、人と人の間を、和やかに繋ぐ事ができる方法です。これがなければ、全ての行為に対して、ルールを決め、信賞必罰を徹底しなければなりません。さもなければ、常に人と人の間で争いが絶える事はないでしょう。
その筆頭は、前回まで考えてきました。話し方にあると思います。それは、「初めに言葉ありき」と新約聖書の中にある「ヨハネによる福音書」の言葉にもありますが、キリスト教徒でなくとも、人が人たるゆえんは、言葉による複雑な伝達能力の進化にあると言えると思います。
しかし、その言葉も、動作が伴う事で、相手の受け取り方が全く正反対に捉えられることもあります。言葉と動作には、密接な関係があると思います。
言葉だけを聞くと、『礼節』のある言葉であっても、その言葉を発する人の動作によっては、『礼節』を欠く事もしばしばあります。
挨拶も、「おはようございます」と、言葉だけを聞くと、決して非礼でも無礼でもありませんが、と言うか、明らかに敬語ととれると思います。ただ、その言い方や、ここで考える動作によっては、『礼節』を著しく欠く事になります。
もし、「おはようございます」と言った相手が、相手も見ず、机の上に足を上げ、新聞を読んでいたとしたら、その足を蹴り上げたくなる衝動に駆られるのではないでしょうか。いやいや、そんな事をしては、いけません。
机の上に足を上げる所までは行かないまでも、相手も見ず「おはよう」と言う人は、今までの人生で何人もいました。
もちろん、「おはよう」の一言もなく、また、こちらに視線を向けても、睨みつけるような見方は、良い習慣とは言えません。まるで、喧嘩を売っているいるようにしか見えません。論外ですけども、中にはこんな人もいます。
私は、誰も人に対して威張る権利を持っていないと、思っています。会社に在籍している時は、部下であっても、呼び捨てにした事はありません。道場では、呼び捨てにする規則を作っています。理由は、教える側と教えられる側を区別するためです。これも、差別している分けではありません。教えられる側は、教えてもらうと言う素直な気持ちを持ち、「瀉瓶」を実践しなければ、折角の覚える機会を、自らの手で無くしてしまうと思うからです。道場の中では、上下関係が必要であると思っています。
しかし、社会においては、仕事上の上下関係はありますが、人間を下に見るような呼び捨ては、どうしても私には馴染みませんでした。ある時、お客様の会社の担当者から、どうして自分の部下に対して、「さん付け」で呼ぶのか、聞かれたことがありました。その人は、部下は呼び捨ての方が、指示命令が上手く行く、「さん付け」は止めた方が良いと、アドバイスをもらいました。しかし、私は、それには従いませんでした。その人はアドバイスではなく、注意したつもりかも知れません。
私は、「命令」と言うのも、好きではありません。組織では当然だと思う人がほとんどですが、私は、社長にも「命令」は、極力謹んだ方が良いと諫言した事もありました。では、どうして仕事を部下にしてもらうかと言いますと、仕事の内容によって、その仕事に合う人に「依頼」するようにしていたのです。案外、命令するより、スムーズに仕事がはかどります。
要するに、仕事を優先にしていただけで、人に権力をふるっても仕方がないと、思っていたのです。
私は、色々仕事を変遷して来たと、このブログで書いてきましたが、その行く先々で、また、お客様と呼ぶような様々な人に、会う機会がありました。
そんな中で、特殊と言えば良いのか、私には理解できない振る舞いをする人がいましたので、紹介します。
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まず、挨拶は、先ほどの通り、そっぽを向いてします。私が座っているソファーに来て、立った状態で、ワイシャツの胸のポケットから、煙草の箱を取り出し、上から放り投げて、ソファの前にある机の上に置きます。そして、ドカッとソファに踏ん反り返って座ります。この人、国の金融関係の人で、決して肩書は上の方ではありません。歳は私よりも10歳は若いと思います。その後で、上司の方が挨拶に見えます。こちらの方は、『礼節』に適った挨拶をして、静かにソファに座られます。10年程の付き合いがありましたが、決して悪い人ではありません。何か勘違いしているのでしょう。私には理解不能です。
もう一人紹介しましょう。この人は先ほどの人とは違い、物腰は柔らかく、言葉遣いも丁寧で、行き届いた気配りの人です。この人は、私が経営していた会社を潰してしまった時に、助け舟を出してくれた人です。
この人は、不動産会社の社長ですが、コンピュータを使った管理会社を作った時に、現在「画竜点睛を欠く」状態です。是非目を入れてください。と、毎日お誘いがあったのです。私としては、渡りに船の良い話なのですが、私にはちょっと、慇懃すぎる人なのです。慇懃ですから節度は越えていません。上質の『礼節』を弁えていると思います。しかし、私にはちょっと違和感を感じていました。言い方を変えれば、「画竜点睛を欠く」と言うのは、格好つけすぎ、と思ったのです。
結局は、その新しい会社に管理者として入社したのです。在職中は、本当に気配りを受け、身に余る扱いを受けたのですが、最後まで、私には過ぎた『礼節』だったと思います。何かにつけ「もったいをつけた」言動に、閉口していました。
これも、人それぞれに受け取り方が違います。随分手広く会社経営をされていましたし、コネクションも沢山構築されました。
先ほどの人とは、意味合いが違いますが、私には理解不能であった事は、確かです。
私は、『適度な礼節』を好むのではないかと、思います。上の『礼節』の節度の壁が左の方に少しずれているのかも知れません。慇懃の態度が、私には慇懃無礼に映ってしまうのでしょう。これは、私が感じる事ですから、正しい分けではありませんが、何だか、板についていないように感じてしまうのです。
板についた『礼節』については、前回、美智子妃殿下を引き合いにさせてもらいましたが、全く違和感なく、素直にその振る舞いに感動する事ができました。
その他にも、食事をするのに余りにも時間がかかる人が、大手不動産会社の営業部長にいました。いっしょに行動した事も度々ありましたが、この行動も少し『節度』の壁からずれていると思います。
また、皆と行動を共にしないといけない時、これはゴルフ場での事です。一人だけお風呂からなかなか出てこない人がいて、お客様をお待たせする事がありました。これが接待する側の人間で私の部下です。これも人に迷惑がかかりますので、非礼です。
立ち振る舞いと言うのは、『礼節』を表現する上で、重要な要素になります。また、直接人からの評価を受ける事にもなります。
次回は、続篇と言う事で、もう少し例を挙げて見たいと思います。