文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【58】 2018年9月17日 / zuishin / コメントする 今日の一文字は『和歌』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第五十七段』を読んで見て、感じた文字です。 原文 現代文を見る 歌 昨日、樹木希林さんの訃報を聞きました。自分の事を「さらし者」と公言し、役者の世界で、筋を通した生き方をした人だと思います。 先日映画「あん」を紹介しましたが、年齢が近いせいか、一抹の寂しさを感じます。 空手を通じて知り合いになり、時には反発したり仲良くなったりした仲間が、次々に亡くなりましたが、やはり同じような年齢で逝っています。 まさに、諸行無常の世の中です。 それにしても、昨日安室奈美恵さんのニュースでもちきりのテレビ番組でしたが、今日は一斉に樹木希林さんを取り上げているようです。当然と言えば当然ですが、この情報の取り上げ方の方が、光陰矢の如しと言うのか、秋愁しゅうしゅうを感じるのは、季節のせいでしょうか。それとも、歳のせいでしょうか。 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。 徒然草 第五十七段 〔原文〕 人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ。すこしその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。 すべていとも知らぬ道の物がたりしたる、かたはらいたく聞きにくし。 『現代文』 まず、我流で現代文にしてみましょう。 『 人が話題にしている歌物語でも、歌が悪いと本来の趣旨では無くなる。少しその道を知ってれば、ひどいと思い語ったりはしない。 どんな事でも、よく知らない方面の事を話すのは、腹立たしく聞き苦しい。 』 【参照】 歌物語:(1)歌を中心とした物語。また、特定の歌に関する物語。うたがたり。 (2) 平安前期の物語の一種。特定の歌を核として、それにまつわる物語を展開したもの。また、そのような短い物語・説話を集めた作品。「伊勢物語」「大和物語」など。 (出典:大辞林第三版 三省堂.) 『歌』 ここでの、「歌物語」は、「伊勢物語」や「大和物語」ではなく、誰かの和歌を評論している事を言っているのだと思います。 評論する和歌の出来が良くないと、評論もできない、少し和歌の事を知っている人なら、そんな和歌の事をとやかく話したりしない、と言っているのだと思います。 〔知ったかぶり〕 確かに世の中には、知ったかぶりの人が大勢います。私もその中に入ってしまうかも知れません。 現に、「知ったかぶり」と言われた事もありました。私の場合は、何度も言っていますが、10回も職業を転々としていました。 運が良いのか、根が没頭するタイプですから、僅かの年月で、会社のそこそこの役職に就く事ができました。ですから、意外と知っている事も、多岐に渡っています。 この「知ったかぶり」と言う言葉を聞いたのは、面と向かってではなく、その人が聞こえないと思って呟いた言葉でした。 内容は、「土地の登記簿謄本」の取り方でした。その会社は不動産とは全く関係のない会社なので、「土地の登記簿謄本」の取り方を知っている人はいません。ですから、私が詳細に説明したのを横で聞いていたのです。 黙っていても、法務局(登記所)に行って聞けば、丁寧に教えてくれるのですが、お節介にも説明してしまいました。 多岐に渡っていると書きましたが、職業も、継手の工場から、印刷、不動産、警備業などですから、知らないといけない専門知識が、まったく違います。 知らない人からは、「知ったかぶり」と思われても仕方ありません。 では、本当に熟知しているかと言いますと、「土地の登記簿謄本」の取り方などは、不動産会社で営業部長をしているころ、また経営している時には、毎日登記所に出向くのが日課でした。ですから、これは熟知していた事になると思います。 お陰で、父の名義から、土地と建物の名義を変更する時は、自分で書類を作成して登記所で手続きを済ませました。 しかし、他の事で、全てを熟知しているか、専門の知識と呼べるほど体験や経験を通じて自分のものになっているかと言うと、疑問符が頭の上を3つほど飛び交います。 ですから、「知ったかぶり」と小耳に挟んだことを契機に、知っている事も、人には伝える事を極力さけるようになりました。 もちろん、聞かれれば、知っている範囲で答えますが、自分から言う事は、小さな親切、大きなお節介にもなりますし、「知ったかぶり」と言われるのも、気分が悪いですから。 それでも、口をついて出てしまう事があります。お節介が過ぎるのですね。気を付けましょう。 そんな訳で、私はコメンテーターと呼ばれる人も、評論家と言う職業の人も大変だと思っています。この類の人達は、全てとは言いませんが、自分では何もできない人が多いのです。 例えば、芸術の評論家などは、その代表格でしょう。もし、その人が芸術家であれば、人の評論などしないでしょうし、興味もないと思います。 こういう人に限って、一般には使われていない、専門用語を並べ立て、煙に巻くような言い方になります。自分では、理解されているのだとは思いますが、評論家の役割は、分からない事を平易な言葉で、一般の人に伝えるのが役割ではないかと、思ってしまいます。 スポーツでもそうですが、自分が過去に経験があり、解説をしてるのとは違い、いわゆる評論家の場合には、座学で勉強した知識をもとに、人を評論しています。ただ評論するだけではなく、こけ下ろす事もします。 何を根拠に人を罵倒したり、中傷したりする事が出来るのでしょう。 「知ったかぶり」ならまだしも、評価や評論しようとする人の気持ちが理解できません。 〔教養〕 ただ、何度もこのブログで取り上げていますが、テレビ番組「プレバト才能ランキング」俳句の夏井いつき先生が、どれだけの実力か、私には分かりませんが、 その批評の的確な事は、いつも見事だと感心しています。 よく辛口査定と言われていますが、この程度の言い方は、辛辣とも聞こえません。言葉が幾ら荒っぽくても、親近感を持ちます。 特に添削した理由が、非常に理論的で説得力があるのが、良いですね。私は俳句の「は」の字も知りませんが、私にも納得できる説明をするのですから、流石だと思います。 逆に丁寧で真綿で包んだような物言いの人が、品があると勘違いして、話しをされているのを聞くと、気分が悪くなります。 そう言えば、昔そんな品を誤解している人の事を「ざーますおばさん」と呼び、揶揄されていた記憶があります。 教養と言うのは、ひけらかすと、教養ではなくなります。また、その表現の仕方で、品があるようにも取れますし、下品な振る舞いにもなってしまいます。 その点、夏井いつき先生などは、評価は分かれてますが、私は、好感を持って見せてもらっています。私などに好感度を上げるために話してはおられないでしょうが、それでも好感度大です。 その理由は、相手によって、言い方を考えて査定をされています。特に梅沢富美男さんには、かなり辛辣な言葉で、丁々発止のやり取りをされています。それは、梅沢さんも同じで、相手との距離感をしっかり取れる人だと、お互いに認め合えるからだと思います。 私はこの二人は、教養あり。と、外野席から応援しています。 教養は、滲み出した時に、教養ではなくなります。「能ある鷹は爪を隠す」と言うように。知識もひけらかすと、品性を疑われます。 夏井いつき先生は、立場上、自分の持っている専門的な知識を存分に披歴するのが仕事だと思いますから、この「能ある鷹は爪を隠す」が当てはまらない事は言うまでもありません。 奥ゆかしさこそ、日本人が忘れてはならない教養だと思うのですが、どんどんと劣化の一途をたどっていると思います。 西洋かぶれと言われた時代から、随分時間は経っていますが、良い所はとり入れ、忘れてはならないものは、残すのが文化ではないでしょうか。