文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【36】

 今日の一文字は『字』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 習う 会得

 
 朝から暑い日が戻ってきました。日課の体操を終え、お風呂から出て、イモを焼いている時に、テレビを付けました。

 走っています。女子のマラソンです。

 その番組を横目で見ながら、「天のはら みだれむとする ものもなく ほがらほがらと 朝あけわたる」斎藤茂吉の短歌とインターネットで書かれているものを見ましたが、東京書道教育会の最終課題の一つです。誰の短歌か解りません。

 これを半切に書きました。創作が課題ですから、手本がありません。難しいです。

 今、女子マラソン、野上恵子さんゴール、銀です。おめでとう。ちょっと感動。胸が熱くなりました。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十五段 〔原文〕

手のわろき人の、はばからず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  字の下手な人が、気にせずに手紙をたくさん書くのは許せる。字が下手だからと言って、人に代筆させるのは良くない。 』

 

『習う』

 今でも、字が下手な事を理由に書かない人が沢山います。

 今日の第三十五段では、字の下手な人でも手紙を沢山書く人の事を、さも良いように訳している人がいますが、私は、代筆させるよりは、下手でも自分で書いた方が好ましい、と兼好は思ったと、理解しました。

 なぜそう考えたかと言いますと、昔は、字を書ける人の絶対数が、色々な文献から推測しますと、少なかったと思えます。要するに上流階級と呼ばれる人の特権であったと思えるのです。

 ですから、現在のように誰でも一応、字を書ける時代ではないと思います。しかも、鉛筆も無い時代ですから、筆記用具は毛筆に限られたのではないでしょうか。であれば、幼少期より字を習い、ある程度の字は、書けるのが普通だったと思います。これは、あくまでも推測に過ぎません。

 兼好が下手だと言っているのは、現在の人が下手だと言っているのとレベルが違うのではないかと思います。だから、代筆より自筆と言っているのでしょう。

 また、「うるさし」も嫌味であるとか、わずらわしい、のように解している事も見受けられます。

 私は、代筆を嫌味とも思いませんし、わずらわしい。と思う事もありません。と、いうよりどういう意味か、理解できません。

 私にとって、代筆と言うのは、立場の偉い人が、忙しい事を理由に、下の者に言いつける、あるいは、怪我や病気の為文字が書けない状態だから人に代筆を頼む。そんな事しか浮かびません。

 ですから、代筆させる事を否定はしませんが、それでも代筆してもらわないといけない場合を除いて、自筆の方を勧めます。

 よく、ありのままで良い。と言う言葉を聞きます。そのように考えないといけない場合もあると思います。

 しかし、人間と言うのは以外に向上できる動物です。努力した結果「ありのまま」であれば良いのですが、 努力もしないで、投げやりに「ありのまま」でいられたら、周りの人が迷惑します。

 それでも、生まれながらに、社会に適応する能力に欠けている部分があるとしたら、それは「ありのまま」で良いと思います。ほとんどの人、私も当然含まれますが、正常と異常の狭間にいると思います。 ある部分では優れていても、ある部分では優れていないのが、人間の宿命ではないのでしょうか。
 
 なんでもそうだと思いますが、場合によると思います。

 ここで言われているような、「字」を書く事に、「下手だから仕方ないだろう」と居直られても、何とも言いようがありません。

 私などは、前にも書きましたが、小学校の先生が、わざわざ家にまで来て、答案用紙に書かれている文字が判読できないから、少しは、人が読めるような字を書かせてください。と言われた事がありました。

 文字は、人と人を結び付ける、言葉の表現の一つです。相手が不愉快になるような文字は、避けるべきでしょう。何も書道家の書いたような文字を必要とはしていません。

 芸術としての書道、個人の感性に任せて、自由奔放に筆を使い表現するような字を書いても、礼に適っているとは思えません。

 習うのであれば、大部分の人が、「綺麗な字」と思ってもらえる字を習う事です。

 その特徴は、出来るだけ癖の無い、素直な文字が好ましいと思っています。そして、一点一画が正確に書けている、崩した文字も崩し方に準じた崩し方をしている事、自分で勝手な崩し方をすると、他の人が読むのに困ります。「綺麗な文字」でも言葉と同じで、相手に伝えるために書くのですから、奇抜で奇をてらった文字を良いとは思いません。

 そんな幼少期を送った、ミミズが這ったような字を書いていた私でさえ、努力すれば、書道の師範になれるのです。それが、習うと言う事だと思います。

 

『会得』

 「習う」と書きましたが、習うだけで字が上手くなるなら、誰も苦労はしません。

 私が「お習字から書道へ」と題してブログを書いた理由の一つは、お習字、今では書写と言うらしいのですが、習うと言うのは、この書写に当たります。この書写から毛筆で書く事を「道」としてライフワークにしたいと思ったからです。まだまだ、書写の域を出てはいません。

 書写という字の通り、書き写す事が習う事になります。空手でもそうですが、習うと直ぐには、言われたとおりに出来ません。出来なくても良いのです。それが習うと言う事なのですから。

 「ものには仕方がある」と、このブログで何度も書いていますが、「習う」事にも「仕方」があります。

 この「仕方」は、自分で見つける事、すなわち「会得」する事が一番ですが、「学ぶ」事も一つの方法です。「学ぶ」と「真似る」は、語源が同じと言います。

 最近は独創性と言う事が大切だと言われていて、人から学ぶ事を忘れているのではないかと、危惧しています。

 中には、生まれながらに独創性のある人もいるでしょう。それは、言葉は良くありませんが、突然変異です。いわゆる、天才です。

 人間は、人から人へと繋ぎ、そして進歩して来た歴史があります。ですから、出来る人を真似て、そして、自分の物にし、学んだ事を会得した結果、独創性を身に付けるのです。この過程を無くして、普通の人として生まれた、私と同等の凡人は、習う事もせずに、独創してはならないのです。

 先ほども書きましたが、「ありのまま」で良ければ苦労はしません。「ありのまま」は、生きていくための方便でしかありません。まずは、習い、学び、会得しなければならないのです。

 そして、 努力する事が出来るように生まれています。天才にまで成れる努力が出来るかは、分かりません。ブログの中にも書きましたが、『天才とは、努力する事ができる才能を持っている人』だと、中学生の時に思った事は、今も変わりません。

 それでも、普通一般に、平均的なレベルにまでなれる努力は、出来るものです。私がそうであるように。

 小学校6年生の時、中学受験を控えて、母と従兄と3人で電車に乗っていて、中吊り広告を見て、「親王様」と書いてあるのを「おやだまさま」と読んで、従兄に「こいつあかんで」と大笑いされた事を今でも覚えています。これには、まだ続きがあって、中吊りの広告に「最中もなか」とかいてあるのを「さいちゅう」と読んで、二人がゲラゲラ笑っていました。

 私は、鈍感なのか、そんな事は、意にも介していなかったのです。ですから、まったく心に傷つくことはありませんでした。

 まず、何かを習おうと思ったら、謙虚になる事が先決です。いつも言っている「瀉瓶」です。

 そして、今日の一文字の左上に押してある「関防印」、「只管ひたすら」と彫りましたが、手本を「只管ひたすら」真似ることに徹します。

 いやと言うほど、真似ていますと、疑問が出来、これを解決するために、また「只管ひたすら」稽古をします。すると、腑に落ちる事があります。 「あっ、なるほど」と、会得するのです。

 会得すると、今まで、不思議に思っていた疑問が、当たり前になります。そこで初めて、独創性の扉が開かれます。

 その独創性の扉が開くのを「只管ひたすら」待ちましょう。きっと「ありのまま」の自分を見つける事ができると思います。

 習い事には、昔から「守破離」と言われている過程があります。まず、守るべきものを「守る」事で、会得できますから、それからは、自分との戦いです。

 そしてがんじがらめになった「我」から解放されるために、これを破るのです。

  そして、只管習って、只管解放して、自分が見えたらようやく、その制約から離れる事を許されると思います。