文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【33】

 今日の一文字は『実』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第三十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る しのび逢い 立ち振る舞い

 台風20号、進路は高知から岡山か広島に抜けるようです。進路に当たる所は、くれぐれも用心してください。被害が大きくならないよう祈っています。

 すこし右にずれると、大阪直撃かも知れません。今日の夕方から明日の朝方に上陸するかも知れません。

 それにしても、次から次へと、今年はやはり多いように感じます。昨夜から今朝にかけて、蒸し暑く寝苦しいかったですが、ようやく朝になってから涼しい風に変わりました。風は時々強く吹いていますが、やはり台風の影響でしょう。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第三十二段 〔原文〕

 九月ながづき二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内あないせさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひしめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。

 よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覺えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸を今少しおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らん。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人、程なく亡せにけりと聞き侍りし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  九月二十日ごろ、ある人に誘われて、明け方まで月を見ながら歩きまわった。
 その人が思い出して、私に様子を見させてから、中に入られた。

 荒れた庭に夜露が下り、自然な香りが立ち込める中で、息をひそめる様子はとても趣があつた。

 しばらくしてその家から出てこられた。会われた相手の立ち振る舞いに魅せられ、物陰から様子を窺っていると、扉を少し押し開けて、月を眺めている様子である。
 見送ってから直ぐに扉を閉めて鍵をかけて中に引き籠ってしまうようだと、それまでの優雅さが台無しになる。

 まさか、その様子を隠れて見ているとは思わないだろうから、身に付いた仕草だろう。

 その人は、程なく亡くなったと聞かされた。 』

 

『しのび逢い』

 この話、どう理解すれば良いのか迷います。

 一つ目の疑問は、多分言葉から想像すると、身分の上の方に誘われたのでしょう。それにしても、明け方までぶらぶらと月を眺める相手が、同性で、しかも身分の偉い方。私には想像する事が出来ません。

 若い時には、夜を徹して議論した事がありますが、確かにその相手は男性でした。仲の良い親友でしたが、月を眺めるような関係ではなかったと思います。

 もう一つの疑問は、しのび逢いのために、人を誘う気持ちが分かりません。それではしのび逢いにならないじゃないですか。どこにも、しのび逢いとは書いていませんが。

 まだあります。明け方と言いますから、今で言う朝の4時から5時くらいでしょうか。そんな時に、こっそりと人が入ってきたら、泥棒か強盗かと大騒ぎになると思いますが、その当時はそんな犯罪はなかったのでしょうか。鍵もかかっていなかったようですし。
 しかも、その時間に起きてますか。

 まだまだ疑問が出てきます。

 相手を見送って、しばらく月を眺めている様子は、絵になりますね。しかし、そんな事は、もしも、しのび逢いだとしたら、当たり前の事でしょう。私が疑問に思うのは、いくら誘った相手が居たとしても、陰からその様子を見るでしょうか。ここには詳細は書かれていませんが、兼好が隠れて見ようと思ったら、それは当の本人が戒めるでしょう。また、二人でそれを隠れて眺めているとしたら、おかしな二人でしょう。まったく理解に苦しみます。

 勝手な想像をさせてしまう文章ですが、もしもですが、その相手が女性だとして、その身分が高いと思われる人のお妾さんだとしたら、荒れ放題の庭のある家に住まわせている事も理解できません。

 そこで、「しのび逢い」ではなく、ふいに、「そう言えばこの辺りに病に伏している知人がいた」と思い出し、見舞いに行ったとしましょう。これも、状況から言うと無理がありますが、まだ月が出ている明け方に、病気見舞いでもないでしょうが。

 それでも、最後の文章には繋がります。「その人、程なく亡せにけりと聞き侍りし。」

  もう、お手上げです。意味不明の文章でした。

 

『立ち振る舞い』

 意味不明でしたが、一朝一夕で優れた「立ち振る舞い」ができるものでは無い事は、この文章からも読み取れます。

 兼好が魅せられた「猶ことざまの優に覺えて」「たゞ朝夕の心づかひによるべし。」によって語られています。

 「猶ことざまの優に覺えて」は、「なお立ち居振舞いが優れている事に魅せられて」と理解できます。しかも、そのように立ち振る舞えるのは、常に心にかけて、普段から気を付けていなければ、できるものではない。と兼好は思ったのでしょう。

 また、ちょっとした仕草で、その人の本当の気持ちが解ると言いたかったのかも知れません。

 まさにその通りだと思います。「付け焼き刃」や「お里が知れる」の言葉にあるように、ちょっとした仕草で、地が出てしまうものです。今日の一文字に書いた「実」、性根とも言うのでしょうか。そんなに簡単に消す事ができないのが、「育ち」と言われる身に付いた仕草だと思います。

 このブログでも 立ち振る舞いについては、「礼と節」に関係が深いと思い、記述しています。

 一応は気を付けているつもりですが、この立ち振る舞いも、節度を越えるような、人に悟られるような、振る舞いは避けたいと思いますので、さりげなく、が、格好良く思います。ようするに板についた振る舞いとでもいうのでしょうか。粋ですね。

 できれば、これからどんどん年老いていきますから、粋な老人になりたいと思います。

 ベランダのプランターに咲いている花があるのですが、咲いている時は美しくて良いのですが、枯れて来るとどうも汚くなります。もちろん、花自身が汚いと思っている分けではないと思います。

 人間も年老いてくると、若い人と比べると、実に汚くなってくるのが分かります。できるだけ、汚くならないよう気を付けていますが、私が出来る事は、身体を動かして、新陳代謝を良くして肌つやを良くし、筋肉を衰えさせない事くらいで、顔に何かクリームを塗るとか、シャンプーを使うとか、トリートメントをするとか、まったくしません。と、いうより固形石鹸で頭も顔も体も同時に洗います。これは、髪の毛が無いから出来るのですが。ある意味便利です。

 それでも、気付いている間は良いのですが、知らない間に朽ちていくのでしょう。

 私の計画では、80歳まで生きる予定なので、それまでは、若い人から汚いと思われたくはありません。

 しかし、 それでも汚くなったら、バトンタッチしたいと思います。

 花などは、枯れて汚い間は僅かの期間の方が風情があります。桜の花など典型ですね。

 綺麗だなぁ、と思ったら、風が吹き、その風に乗って散ります。その散り方にも趣があります。なんだか、兼好のような言い方ですが、私のような無粋な人間でも、桜の花が散る姿は、粋だなぁ、と思ってしまいます。

 もしも、80歳を超えて、粋な老人に成長していれば、もう少し、寿命がくるまで生きていけるかも知れません。

 そして、カッコよく、粋に去っていきたいと、切に思います。