【五輪書から】何を学ぶか? |
前回では、他流派をシビヤに評価することで、自らの編み出した流儀を浮かび上がらせる、という事を「風之巻」に書いたとありました。
そこで、初めに刀の大きさについて、評論しています。
大きな刀、すなわち太刀と言われる物か、長刀と言われるものですね。
写真は、通常より長い刀と、脇差と呼ばれる短い刀です。少し脇差を縮小した分、デフォルメしていますが、長刀の柄の部分から、かなり長い刀である事は、想像できます。
外国では、競争相手の会社の悪い所をあげつらう事を、コマーシャルにして宣伝をすると言う事があると、聞きます。また、アメリカでは、大統領選では、相手の候補者をこけ下ろすのが戦術のようにも、見えます。最近では、日本でもそういった傾向があるようです。
少し前までは、日本では、相手の弱点を突いたり、相手をこけ下ろしたりする行為は、嫌われたように思います。節操がないと言う理由でしょう。また、武士の情けかも知れません。そういう気風が日本にはあったように感じていました。
1984年のロサンゼルスオリンピック、男子無差別級決勝でのモハメド・アリ・ラシュワン選手が、右足を負傷した山下泰裕選手の右足を故意に攻める事が無かったと話題になった事は有名な話ですが、その年の国際フェアプレー賞を受賞したらしいです。
ただ、この話も後日談があり、山下泰裕選手は、この話を否定しています。なんだか、興ざめしてしまいます。これも全ての内容が分からないので、何とも言いようがないですが、黙っていた方が良いのにと思ってしまいます。
もちろん、負けた人が言うと、もっと残念ですが。
それでも、世界中がその行為を称賛し、フェアプレー賞が贈呈された分けですから、その頃では、国際的にも美談であった記憶があります。
現在の国際感覚を詳細に知る事は出来ません。今や、どの世界でもフェアプレーよりも、勝つ事を優先しすぎている傾向を感じています。
選挙でも勝たなければ、議員として活躍する事が出来ないと、勝つ事を大義としますし、スポーツでも勝つために勝負しているのでしょう。勝たなければ職業として成り立たないからでしょう。理由は十分理解できるのですが、昔の日本を美化する分けではありませんが、人間に悖るような勝ち方をすると、折角勝っても社会からはみ出されていたように思います。
さて、武蔵は他流の事について、ただ侮辱し、避難しているだけなのでしょうか。表面上の言葉より、言葉の裏側に垣間見る、武蔵が本当に言いたい事を、探し出して見ましょう。
【風之巻】の構成
1. 兵法、他流の道を知る事 2. 他流に大なる太刀を持つ事 3. 他流におゐてつよみの太刀と云事 4. 他流に短き太刀を用ゆる事 5. 他流に太刀かず多き事 6. 他流に太刀の搆を用ゆる事 |
7. 他流に目付と云ふ事 8. 他流に足つかひ有る事 9. 他の兵法に早きを用ゆる事 10. 他流に奥表と云ふ事 11. 後書 |
2. 他流に大なる太刀を持つ事
他で大きな太刀を好む流儀がある。我兵法から見れば、これを弱い流儀と見立てる。その理由は、如何にも人に勝つ方法を知らない。太刀の長さを有利と思い、間合いが遠い所から勝ちたいと思うので、長い太刀を好む気持ちがある。
世間では言われる、少し手に余るものである。兵法を知らぬ者の考えである。
然るに、兵法の理論がなく、長き太刀で遠間から勝とうとする。それは、心が弱いから考える事で、弱い兵法と格付けする。
もし、敵との間合いが近い時や、組み合った時には、太刀が長いほど、打つ事も出来ず、刀を持つ利益が少なく、太刀を二つにし、脇差や素手の人に劣る。長い太刀を好む人に、それぞれ理由はあっても、それは、自分ひとりの理屈と言える。世の中の真実の道より見ると、道理が合わない。
長い刀を持たずに、短い刀では必ず負けてしまうものなのか。あるいは、状況が、狭い所や、脇差しか持たない座でも、長い太刀を好むのであれば、その兵法を疑わざるを得ない、悪しき考えである。
人によっては、力のない者も居る、体格によって長い刀を腰に差せない人も居る。
昔から、大は小を兼ねると言うから、一概に長い刀を嫌う分けではない。長い刀に拘る心を嫌う分けである。合戦の兵法では、長い太刀を大人数、短い刀を少人数と言う。少人数では大人数と合戦できないと思う事もない。少人数で大人数に勝ってこそ兵法と言える。
昔でも、少人数で大人数に勝った例は多い。
我流儀においては、このように拘り偏った狭い心を嫌う。よく吟味する事。
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『私見』
ここでは、大きな太刀を好んで持ち、その利便性を語る流儀に対して、批判的に論評するのがテーマです。しかし、武蔵は単純に大きな刀が悪いと言っているだけでは無い事は読み取れると思います。大きな刀に固執する事がいけないと言っています。片寄った考え方は、戦いの中では、特に注意する必要があると思います。いわゆる思い込みは、墓穴を掘る事になります。
思い込むことで失敗する例を、次元は低いと思いますが、簡単な例で言うと、相手が上段を攻撃すると思い込んでいる時、中段を攻撃した場合は、対処するのに手間取ります。反応の早い人から見ると、そんな馬鹿な、と思う事が実際にありました。
私が中段を攻撃したのを、上段揚げ受けしていた友人がいました。その瞬間に緊張の糸が切れ、笑ってしまいました。
特に、基本組手の場合は、明らかに上段・中段と約束されていますから、思い込んでしまう要素が高いです。
自由組手では、そういった思い込みは、まずないと思いますが、それでも何度も対戦している相手の場合は、相手の得意技などが分かっていますので、可能性はあります。
今では、殆ど何も考えていないので、自分の攻撃でも、自分で攻撃してから気付く位です。
武蔵の書き方が極端な表現をしているので、誤解されやすいと思いますが、武蔵は、大きな刀を否定しているのでも、小さな刀を推奨している分けでもありません。大きな刀に拘っている流儀に対して、警告しているに過ぎません。
最後にある、「小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ」、と書いてある文章に、兵法の兵法たる意義を感じます。
兵法の古典、武経七書に孫子の兵法と並んで三略がありますが、その中にも「柔能制剛」(柔よく剛を制す)とあります。しかし、その意味は、必ず柔が剛に勝つ分けではなく、ものは使いよう、と言う意味で書かれています。
柔道の嘉納治五郎先生の言葉として「柔剛一体」が伝わっていますが、その意味である「柔よく剛を制す、剛よく柔を断つ」の、前の部分「柔よく剛を制す」が、取り上げられる事が多いので、混同しやすい言葉ですが、この言葉も必ず柔が剛を制する分けでは無い事が明白です。
それでも、折角技術を身に付けるのですから、小さい者でも大きな者を倒せる技術を身に付けたいと思うのが人情です。また、技術とはそういうものだと思っています。
もう少し視点を広げて考えてみますと、幾ら技術を身に付けたからと言って、何も技術を持たない者を侮っては、いけません。昔から言いますが、喧嘩十段と言う人も中には居るのです。何事にも思い込みが、命取りに成りかねません。
ただし、逆もまた真なりで、余り注意しすぎるのも、委縮してしまう事になります。「いい加減」が良いと思います。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言うではありませんか。
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html
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