「五輪書」から学ぶ Part-77
【風之巻】他流におゐてつよみの太刀と云事

 【五輪書から】何を学ぶか?  

 今回の、「つよみ」と言うのは、実際に強い刀を表してはいません。刀を振る場合の心の在り方にスポットを当てて、他流を評論しています。

 通常、剣術や格闘技だけではなく、技術を習得する過程で、力の入れ具合には、コツがある事に気付きます。もちろん、教える人は、その事に気づかせるべきです。

 空手にしても、繰り返し練習する事により、力を抜く事が、速い威力のある攻撃の技や、受けの技になる事に気づくと思います。そして、ただ単純に力を抜けば良い分けではないと、次第に知るようになります。

 「つよみ」からイメージする事を少し止めて、読み進める必要があります。同じように「強き心」も、どう言った意味であるかを、考える必要があります。
 習い事をしている内に、当たり前になっている事も、他から見ると異質に感じる事もあります。社会においては、業界用語や業界の常識は、一般社会では、異質な言葉であり、非常識になりかねません。
 それでも、その狭い社会で得られるものが、社会で役立つ事も多いのです。よく言われる「一芸に秀でる者は多芸に通ず」や「芸は身を助ける」も、全く逆に見える「器用貧乏」も、どちらも人の役に立つ事は同じです。どちらを活かすかは、その人の考え方次第です。
 と、それ以前に、一芸に秀でる努力はしてみましょう。

 特に武蔵は、自らの体験を通して会得した、心が身体や技に影響を及ぼす事を見抜いて、他流を批判している事は、特筆するべき事だと思います。

【風之巻】の構成

1. 兵法、他流の道を知る事
2. 他流に大なる太刀を持つ事
3. 他流におゐてつよみの太刀と云事
4. 他流に短き太刀を用ゆる事
5. 他流に太刀かず多き事
6. 他流に太刀の搆を用ゆる事   
7. 他流に目付と云ふ事
8. 他流に足つかひ有る事
9. 他の兵法に早きを用ゆる事
10. 他流に奥表と云ふ事
11. 後書
 
『原文』
3.他流におゐてつよみの太刀と云事 (原文は、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlを引用した)
太刀に、強き太刀、よはき太刀と云事ハ、あるべからず。強き心にて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし。又、強き太刀と云て、人を切時にして、むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也。ためし物などきる心にも、強くきらんとする事あしゝ。誰におゐても、かたきときりあふに、
よはくきらん、つよくきらん、と思ものなし。たゞ人をきりころさんと思ときハ、強き心もあらず、勿論よはき心もあらず、敵のしぬる程とおもふ儀也。
若ハ、強みの太刀にて、人の太刀強くはれバ、はりあまりて、かならずあしき心也。人の太刀に強くあたれバ、我太刀も、おれくだくる所也。然によつて、強ミの太刀などゝ云事、なき事也。(1)大分の兵法にしても、強き人数をもち、
合戦におゐて強くかたんと思ヘバ、敵も強き人数を持、戦強くせんと思ふ。
夫ハ何も同じ事也。物毎に、勝と云事、道理なくしてハ、勝事あたはず。我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず、兵法の智力をもつて、いか様にも勝所を得る心也。能々工夫有べし(2) 
【リンク】(1)(2)は【註解】として、播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」にリンクされています。

 『現代文として要約』

 3.他流におゐてつよみの太刀と云事

 太刀に強い太刀とか弱い太刀と言う事があってはならない。強い気持ちで振る太刀は良くない。荒いばかりでは勝つのが難しい。
 又、強い太刀と言って、人を斬る時に、無理に強く斬ろうとすれば斬れないものである。試し斬りをする時も強く切ろうとすると切れないものである。試し斬りでも強く切ろうとするのは悪い。
 誰でも、仇と斬り合う時、弱く斬ろう、強く斬ろうとはしないものである。ただ人を斬り殺さんと思う時は、強い心もいらない、無論弱い心も必要ない、相手が死ねば良い。
 もしくは、強い太刀筋で、相手の太刀を強く打ち当てれば、強く当たり過ぎて、良くない。相手の太刀に強く当たれば、自分の太刀も折れて砕けてしまう。
 しかるに、強い太刀筋などと言う事はない。
 合戦においても、大勢の人数で、圧倒しようと思えば、敵も同様に大勢の人数を用意する。それは、何事も同じである。
 物事には、勝ち方の道理が無くては、勝つ事ができない。
 我道では、少しも無理な事は思わない。兵法の知力で、どのようにでも、勝つ事ができる。よく研究工夫する必要がある。

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 『私見』

 ここで言う、「強い太刀」と言うのは、気持ちを入れすぎた振り方を指していると思っています。
 要するに、物には程度があり、その物によって適正な使い方があるのと同じです。
 例えば、金槌が良い例で、いたずらに強く握り過ぎると、手首から先のスナップが効かず上手く打つ事ができません。

 空手の古武道の一つ釵でも、握りしめてしまうと自由な動きを束縛してしまいます。

 当然剣道の竹刀でも同様です。
 
 特に重い物を扱う時は、力の入れる支点となる部分を把握していないと、上手く扱う事ができません。力を使うバーベルでさえ、バーを力一杯握ってしまうと持ち上げる事が出来ません。

 私は、少し器械体操をしていましたが、鉄棒なども同様で、握ると言うより遠心力に耐えれるように、引っ掛けると言った方が良いと思います。特に写真のように、身体が上にある時など、全く握ってはいません。

 それでも、物を扱うと言っても、戦いとなると、単に扱い方が上手くなってもダメな時があります。

 それが、武蔵の言う、「強い太刀」に見られる心の在り方です。特にそこに憎しみや、恐怖心がある場合は、折角会得した技術を表現できなくなってしまいます。
 最近では、科学的に証明されていますが、緊張により筋肉の硬直があったり、ホルモンの分泌があったり、生理的な変化が現れます。その事により、刀であれば、切れる物も切れなくなるのです。言葉は悪いですが「馬鹿と鋏は使いよう」と言うではありませんか。私が良く言う、「物には仕方がある」と言う事です。

 この事は、武蔵の時代では想像も出来なかったのではないかと、思います。流石に実戦を幾度も体験して得た見解であると思います。

 これは、兵法や格闘技だけでなく、現在の戦いとも言える、ビジネスの世界でも十分参考になる言葉だと思います。

 意気込みも、あり過ぎるといけません。何事も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「いい加減」を心がけましょう。

 【参考文献】 
・神子 侃(1963-1977) 『五輪書』徳間書店.
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.

   【参考サイト】
・播磨武蔵研究会の宮本武蔵研究プロジェクト・サイト「宮本武蔵」http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.html