文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【46】

 今日の一文字は『怒』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 立腹  
 
 自分の所だけ何もなかったから良いとは思いませんが、台風21号は兎に角通り過ぎてくれました。

 被害に遭った地域もありますし、喜んでばかりはいられません。それでも、第二室戸台風と同じ進路で、しかも大阪湾の水位が、その当時以上でした。しかも寝屋川の支流から20m程の所に住んでいますから、朝からニュースを見ていました。

 実際には雨よりも風の強さが凄く、最大風速47.4mと聞きました。部屋の外の風の音を聞いていると、今にもシャッターを巻き上げて、窓ガラスが割れるのではないかと思うほどの勢いでした。ちなみに、ベランダのガラス戸にはシャッターが着いています。

 このマンションに来てから4年経ちますが、これでシャッターは2回目の使用です。

 台風が去ってから、川の水位を見に行きました。満潮時間にはまだ2時間ほどありましたが、川の土手の高さまで2m程ありましたので、大丈夫だろうと思い帰ってきました。

 帰って来たと言っても直線距離では20m程です。まだ風も少し吹いていましたし、小雨が身体にあたり、ほんの2、3分ですっかり体の芯まで冷えてしまいました。

 マンションの入り口にある、幹が25cm程の桜の木がぽっきり折れて、遊歩道に横たわっていましたので、その風の強さを物語っていました。

 家の中に入って、窓を開けて、もう一度桜の木を見たのですが、桜の枝があちこち折れていました。折角のびのびと枝を伸ばしていたのに、可哀そうな事をしたと思ってしまいました。

 今朝は、本当に台風一過、風も心地よく、快晴のようです。昼からは暑くなるかも知れません。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四十五段 〔原文〕

 公世きんよの二位の兄に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正えのきのそうじょう」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池ほりけの僧正」とぞいひける。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『公世きんよ〔藤原・従二位〕の兄で、良覚僧正と言う僧侶は、非常に短気な人であった。

 僧の住まいの傍に、榎の木があったので、人は「榎木僧正えのきのそうじょう」と呼んだ。

 この呼び名はよくないと、僧正は木を切ってしまった。

 切った後の切株があり「切杭きりくひの僧正」と人が言うようになった。

 とうとう腹が立って、この切株を掘り起こして捨ててしまった。

 その掘り起こした跡が堀のようなので、「堀池ほりけの僧正」と人が言うようになった。 』

 

『立腹』

 本当に短気なのか、怒りっぽいのか、私には俄かには信じがたい出来事です。

 相手の肩書を聞いて、偏見を持つのはどうかと思いますが、少なくとも僧の位では、僧正と言うのは、一番上の位だと思います。当時何人の僧正がいたかは知りませんが、かなり少ない人数であったとは思います。

 ですから、これこそ仏教的な意味合いで、問題の「榎の木」を伐採したとは、考えられないでしょうか。

 民衆は歴史を見ても、偉い人にあだ名を付けたがるものです。それも親近感のある人をニックネームで呼ぶようにです。

 この原文の初めに「良覺僧正と聞えしは」とありますから、噂話の域をでません。

 「極めて腹惡しき人」と言っているのも風評に過ぎません。腹黒い人ではありません。ただ、極めて怒りっぽいと言う意味です。

 

莫妄想まくもうぞう

 私はこれを読んで思い出した言葉は、「莫妄想まくもうぞう」です。「まく」と言うのは、「なかれ」と言う意味です。「妄想するなかれ」です。

 これは、人間が頭に浮かんで来ることは、全て妄想だから捨て去る事が大切と言う意味で、「禅」の神髄と思います。

 また、「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」『臨済録より』、この言葉を知ったのは、学生の頃です。
 
 テレビで観た「柳生一族の陰謀」で同じような事を言っていると、思った記憶があります。千葉真一さんが柳生十兵衛の役だったと思います。萬屋錦之助さんが確か 柳生但馬守宗矩の役でした。私にとっては、中村錦之助と言う方がしっくりきます。

 その始まりのナレーションに
「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り然る後、初めて極意を得ん。斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。
 この言葉が耳に残っています。すでに31歳でしたから、少しこの意味も知っていました。

 よく似ていますが、「臨済宗」の「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」を現代文にしますと、
  「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親族に逢えば親族を殺し、初めて解脱する事ができる。物に拘らず、心のまま透けて見える」
 とでも訳すのでしょう。「殺人の勧め」ではありません。

 私は、この文章を見て、初めは何とも言えない、恐怖心と不安が伴いました。そこまで覚悟をしなければ、悟りを開く事は出来ないのかと。

 話を元に戻しましょう。

〔捨てる〕

 私はこれを物語として捉えました。

 人にあだ名を付けられると言うのは、良い事も悪い事であっても、目立つと言う事には変わりがありません。

 この僧正は、榎木僧正えのきのそうじょうと呼ばれた事に、なぜ怒る必要があるのか分かりません。ですから、有名になりたくなかったから、そのあだ名の由来を無くすために、切ったのだと思います。

 それでも、この僧正は近所の人の人気者だったかも知れません。ですから、またまたあだ名を付けられて切杭きりくひの僧正」と呼ばれるようになりました。

 そして、なお人の中で目立っているので、その切株も無くしてしまったのかも知れません。

 そんな努力も空しく、近所の人は僧正に親近感をもって、堀池ほりけの僧正」と呼ぶようになったと考える方が、私には真実味があります。

 次から次へと現れる名声を、自分の手で消して行こうとする様は、まるで、「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」を彷彿とさせます。

 しかし、私は本来お坊さんと言うのは、こうあるべきと思います。

 「無業むごうの一生、莫妄想まくもうぞう」の言葉で知られる、中国の禅僧、無業和尚(760~821)は一生涯、何を言われても、「莫妄想まくもうぞう」と言われたとの記録があります。

 私は、妄想と言うのは、煩悩の事だと思っています。空想や想像する事をいいますが、その内容は、貪瞋痴とんじんちと言われている三毒が有名です。

 とんは、貪欲どんよく、ようするに欲深い事です。そして、じん瞋恚しんにと言い、自分に反対するものを憎む心。痴は、おろかとも言われ、真理に対する無知の心であり、愚痴に表されます。

 もちろん、ここまで拘った良寛僧正も「莫妄想まくもうぞう」と、無業和尚に一喝されそうですが、良覚僧正が捨て去る努力をしたと、考えるのも貪瞋痴かも知れません。「喝!」

〔読解〕

 この文章をどのように読むかは、その人の読解力にかかって来ると思います。特に文学に詳しい人は、私のようにこの文章を読まないと思っています。

 この文章は、読み方によっては、笑い話にも捉える事ができますし、あるいは、単なる怒りっぽい僧侶と、その僧侶を怒らせて陰で馬鹿にしている人達を面白おかしく書かれてある小説のように読む人もいるでしょう。
 
 また、芥川龍之介さんが言う、傍観者の利己主義として、人の難儀を克服する姿を見て、追い打ちを掛けたくなる心理が働いていると、解釈する人もいるかも知れません。下記に傍観者の利己主義と芥川龍之介が言った言葉を載せておきました。

「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、たれでも他人の不幸に同情しない者はいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度はこっちでなんとなく物足りないような心もちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。そうしていつのまにか、消極的ではあるが、ある敵意をいだくようなことになる。」(芥川龍之介著 〔羅生門・鼻〕引用)

 どう読むかは、自由です。自分の基盤となる考えに照らし合わせようとするのが、自然な読み方だと思いました。

 ただ、自分の考えに固執するのも、「莫妄想まくもうぞう」と一喝されそうです。