文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【157】

 今日の文字は『ところ』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百五十六段』を読んで見て、感じた文字です。

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『堀江貴文「僕を含め、世の中の99%は凡人だ」 天才・イチローと凡人・堀江貴文のちがい』
(東洋経済ONLINE 堀江 貴文 2018/12/24 10:00)

【「凡人」と「天才」を分かつものは何か? 実業家としてさまざまな業界、分野で活躍する堀江貴文氏が、独自の論を紹介します。
—–中略—–

 元リクルートの藤原和博さんは、こう言っています。1つのことに1万時間をかければ、「100人に1人」くらいの能力は得られる。「1万人に1人」になるには才能が必要だとしても、「100人に1人」には、才能がなくても時間さえかければなれる。

 能力Aを得た後、次に、能力Bに1万時間をかけて、その能力を得る。そうして、能力Aと能力Bを同時に持つ人物となれば、「100人に1人」×「100人に1人」で、「1万人に1人」の人材になれる。さらに能力Cを得れば、「100万人に1人」の人材。立派なレアカード人材の出来上がりです。

—–中略—–
 これは、「例外的な時代」ではなく平凡な時代に生まれたぼくという凡人からの、同じく凡人である仲間に向けたメッセージなんです。

<まとめ>

ポイント1:堀江貴文は天才だというのは大きな誤解。ぼくは凡人。あなたもたぶん凡人。

ポイント2:天才とは一生一業が許される人。たとえばイチロー選手のような究極にストイックな人物。

ポイント3:誰だって1つのことに時間をかければ、100人に1人くらいの能力は得られる。

ポイント4:「100人に1人の能力」を1つずつ増やしていけば、あなたは特別になる。】

 『天才とは、努力する事ができる才能を持っている人』と何度かこのブログで書きました。

 堀江貴文さんは、自分は非凡であると言っていますが、それは凡人たる私のような者が言う事であって、彼のような才能と運に恵まれた人が、この世の中にどれだけいると言うのでしょう。

 まず、「誰だって一つの事に時間をかければ、100人に1人くらいの能力は、得られる」と書かれていますが、凡人は一つの事に時間をかけられないから、凡人なのです。この誰だって、と言う発想が既に天分に恵まれているのですから。

 私は凡人と書きましたが、凡人の中でも、天才に近づこうとした凡人かも知れません。なぜなら、「一つの事に時間をかける事が出来る」キッカケ、すなわち、「惹かれる」と言う、自らの意志ではないものに巡り合う事が出来た事は確かだと思います。

 それでも、時間のかけ方が足りなかったのだと思います。ですから、「天才に近づこうとした凡人」に過ぎません。

 それでも、それが自分の「分」であることに納得できる事で、折り合いをつける事ができ、「幸せ」に人生を送る事ができています。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百五十六段 〔原文〕

 大臣の大饗は、さるべき所を申し受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿は、東三條殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせなけれども、女院の御所など借り申す、故實なりとぞ。

 

 

『現代文』

『大臣の就任祝いの宴会は、相応の場所でするのが常識である。宇治左大臣殿は、東三條殿で催される。内裏であったが、願い出られたので、帝はその間、他所に行幸された。これと言った縁故がなくても、女院の御所などを借りるのが、昔からの作法とされている。』

 

 

『所』

 時、所を選ぶと言うのは、先人の智慧でしょう。昔からの仕来りや作法は、その時代にあうように考えられた方法ですから、その時代に即した意味があったのだと思います。

 それが、時代が経たと言っても、その方法が合っている場合もあるのが、作法であったり仕来りと言われる物です。

 もちろん、合わなくなる場合もありますが、取捨選択は十分熟慮を重ねた方が良いと思います。なぜなら、決める時には熟慮したと思われるからです。

 ここで仕来りと言っても、大臣の就任祝いの宴会の間、天皇がどこかに行かなくてはならないと言うのは、合点の行かない所ですが、なんらかの理由があったのでしょう。

 場所を選ぶと言うのは、着る物を選ぶ事と共通するように思います。襟を正すと言うのか、気分的にもシャキッとすると思います。

 短冊に俳句を書いて見ました。句の作者は、あの有名な松尾芭蕉です。

 『誰やらが 形に似たり けさの春』

 と、書いています。書いたのは私です。

 嵐雪と言う人が、俳諧で一門を開いた時の記念として、芭蕉に小袖を贈呈し、その小袖に袖を通した時に、普段の自分ではないようで、誰かに似ているような気持ちになり、晴れがましいと言うか、気恥ずかしい気持ちが入り混じった複雑な気持ちを詠んだ句と言う事です。

 お正月を迎えるのに、ちょっと雰囲気を変えてみました。

 例えば結婚式に招かれた時に、普段着で出かけるよりも、いつもは着る事のない、礼服を身に付けて、ネクタイやワイシャツ、靴下、靴まで、普段とは、装いも新たにします。

 すると、やはり気持ちも引き締まりますし、お祝いに行く気持ちも湧いてきます。

 私などは、随分長い間、空手道の世界にいますが、いまでも、道場に入る時に礼をしますが、なぜか結界を越えるような気がします。そして、道着を着て、帯を締めると、普段とは違う気持ちになります。

 私だけではないと思うのですが、普段通りではなく、気持ちが引き締まる事で、真摯な気持ちになるのではないでしょうか。

 よく、『普段通り』と緊張を和らげる言葉を投げかけますが、私は、空手道の昇級審査の時には、初めの挨拶の時に、受審者によく言う言葉があります。

 『緊張して、やる事を忘れてしまい、真っ白になっても構わない』と言います。いい加減な気持ち、なめてかかる事は、この審査を受ける場合には、良くないと思っています。

 心臓が口から飛び出るくらい、緊張してもらいたいと、思っています。その経験が、昇級審査の場合は8回あります。この緊張を越えて受審する事を体験し、自分の経験にまで昇華してもらいたいのです。

 きっと、入学試験や、面接、社会に出ても、役立つ自分に成長していると思うのです。