論語を読んで見よう
【陽貨篇17-22】
[第四十一講 遠い記憶]

 今日は、ギャンブルの話です。「ちゃう、ちゃう」と言われそうです。ここで出てくる「博奕はくえき」 なる言葉について、色々な解釈があるようです。

 「博奕はくえき」 は、「博打」とも書くようです。これならバクチと読めますね。

 学生運動が真っ盛りの頃、学生でした。全共闘や過激派と呼ばれる集団が横行していた時代です。私の家にもたびたび遊びに来ていた友達、喧嘩もしました。高校生の時には、別の高校に通っていましたが、彼に誘われて、二人で他校に喧嘩しに行った事もありました。しかし、大学に入ってから、彼は数人の過激派に襲われ鉄パイプで殴り殺されました。なんで!と思ったものです。

 その頃、私の通っていた大学は一年間授業がなく、毎日パチンコと道場の往復でした。学友はマージャンに勤しんでいましたが、頭を使うのは苦手なので、パチンコです。毎日3件のパチンコ屋をはしごしていました。そのうち、稼げるようになり、半プロ状態になった事もあります。まだ、自動ではなく、立ったまま、一つづつ玉を入れるものでした。もう何十年もしていませんが、やり始めると、はまりそうです。

 さて、本当にバクチの話なのでしょうか、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博奕者乎、為之猶賢乎已』。
●読み下し文
『子のたまわく、飽食終日しゅうじつ、心を用うる所なし、かたいかな。博奕はくえきなるものあらずや。これを為すは猶已なおやむにまされり』。【陽貨篇17-22】

 すこし、意訳しながら内容を把握したいと思います。
 「孔子が、一日中ごろごろして食べてばかりで、考える事もしない。まだバクチでもしていた方がましだ」としましたが、『現代人の論語』では、『食っちゃごろごろ
精神を働かせるということがない。全く度し難どしがたいことだ。博打というものがあるではないか。これだって何もしないよりましだろう。』と記述しています。

 そして、この博打と言う言葉を、他の論評では、囲碁や将棋と訳しているのもわざとらしい、と論じ、一方、文化人類学、宗教学、民俗学では、博打はもともと神意を知る行為だったとし、「卜占ぼくせん」としている。と『現代人の論語』では言っています。ようするに、占いの事です。なるほど、これなら、なんとなく、納得は出来ます。 

 しかし、私は、「囲碁・双六すごろく・花札などの勝負ごと。また、ばくち。ばくよう。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)のように解釈しても、占いと解釈してもどちらでも構わない立場です。どちらかと言うと、下村湖人(1884~1955)の訳「双六すごろくとか碁とかいうもの」の方が腑に落ちます。

 孔子の時代は知りませんし、古代中国の事情も分かりませんが、日本では有名な、安倍晴明あべのせいめいなど特殊な教育を受けた者の、特権的な行為では無かったのかと、思います。現在でもアフリカの奥地に行くと、村長がその役割を果たしているのをテレビで視聴する事もあります。
 ですから、いかに、文化人類学、宗教学、民俗学ではと言われても、俄かに信じがたいものがあります。

 『現代人の論語』では、「博打に金銭を賭けることがありうるはずがない」と言う事も書いてありますので、別に経学儒学的にも問題は無いと思います。他の『論語』の注解書には、経学解釈を踏まえて、「博奕」についてわざとらしい注釈や但書がつけられている。と書かれていますが、経学儒学的には、囲碁も将棋もしてはいけないのでしょうか。この辺は、納得のいかない論評です。

 私はもっと単純にこの文章を理解しています。単純ですがとても大切な事が言われていると思っています。凡人にとっては、尚更です。

 食っちゃ寝、食っちゃ寝していては、まず身体に良くありません。だれもが納得できるでしょう。まず、メタボになりますし、生活習慣病が発症します。

 最近とんでもない仮説が浮かびました。女性の方が長生きするのは、家事を朝から晩までしていて、身体を動かす機会が多いのではないかと、考えたのです。しかも、アスリートのように過度な運動ではなく、負荷の少ない運動をこまめに長時間する事が、反って身体に良く、寿命を延ばしているのではないか、と考えています。
 このブログに私が考えた、 ちょい漏れストップ!!を載せていますが、ちょっとした運動不足になります。しかも、効果抜群!お勧めです。

 話がとんでもなく横道に逸れましたが、元に戻しましょう。

 孔子が言ったのは、運動の事ではありません。「無所用心」何も考えないで、ボーとしている。と言いたかったのでしょう。孔子のもとにいる人達、いわゆる弟子と言う人たちの目的は、学ぶことにあります。学ぶという事ですから、頭を使って考える事が仕事です。
 思考停止をして瞑想状態になる事を目的とする『髓心』への扉と違いますが、手段の違いと思っています。

 孔子が生まれて、約100年、ソクラテスから始まった西洋の哲学、同時期に生まれた釈迦による瞑想の世界、そのどれもが、人として如何に生きるべきかに一生を捧げたのだと思います。そして、各々の弟子たちが綿々と今にその思想を伝えています。そのために、考え、そしてまた考えるという作業を繰り返したのだと思います。

 ですから、孔子の弟子である限り、ボーと、日がな一日を過ごしてはいけません、と孔子は、弟子たちに促したのだと思っています。決して、囲碁や将棋、あるいは双六で遊びなさいと言っている分けではないと思います。

 いわゆる、言葉のあや、で言った言葉と言うのが、私の個人的な見解です。

  休みの日にサラリーマンのお父さんが、「一日中部屋に籠ってないで、パチンコにでも行って来たら」と言われている光景。そんな言葉じゃないですかね。何も遊びにいってほしい分けではないと思います。この場合は、掃除の邪魔にでもなるのでしょう。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.