『礼と節』を表現してみよう。 Part-28 4. 『礼節』として伝えられている作法-----【気配り】

『礼節の作法』目次
1.礼の仕方  座礼  立礼
2.食事の仕方   和食  洋食
3. 座席の順序
4.ビジネスマナー  名刺  時間  文書  続文書   続続文書
5. 参列の仕方
. しつけ
7. 和室での礼儀
8. 洋室での礼儀
9. 同席の仕方
10.気配り
11.立てるという事
 気配りと言うのは、簡単に言ってしまうと、予知能力です。と、言ってしまうと「えっ」と思う人もいると思います。
 心配りや気遣いも、これから起こるであろう現象を予め予想でき、行動に移せる事だと思っています。

 時系列で並べて見ると、気遣いができるのは、現在。そして心配りや気配りができるのは未来という事もできますが、それも限定する事はできません。
 また、対象に対して分けると、個人に対しては気遣い、群衆に対しては気配りと、言葉の使い方から分ける事もできますが、私はそんなに固定しなくても良いのではないかと思っています。その時、その場合によって混在する「気配り」であり「気遣い」です。

 言葉の違いはともかく、どちらも相手に対する配慮や心配り、あるいは思いやりと言った、相手を「忖度」(そんたく)して推測する事だと思っています。

 昨年は、「忖度」を如何にも悪い事のような報道がありました。一部のマスコミによって、「忖度」と言う日本古来の文化まで、歪められてしまうのは困ったものだと思います。「おもんぱかる」や「斟酌(しんしゃく)」など、相手の気持ちを察して行動するという、日本人の奥ゆかしい振る舞いを表す言葉は残しておいてもらいたいものです。

 最初に予知能力と書きましたが、相手がしてほしい事を前もって推察し、予め用意する事を「気配り」と言うのだと理解しています。「痒い所に手が届く」と言う言葉があるように、できる人の重要な要素です。

 ですから、「気配りをする対象になる人」と言うと、ちょと失礼な感じがしないでもないですが、いわゆるターゲットの趣味や趣向について知る事が大切です。ここでは敵ではないですが、孫子の言葉「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆しのとおり相手の情報を収集する事が「気配り」を成功させるカギになります。

 ただ単に先に先に気を回しても、相手が望まない事であれば、反って逆鱗に触れてしまうかも知れません。独りよがりは厳禁です。折角の気の使い方で墓穴を掘ってしまう事にもなるのが、「気配り」「気遣い」です。
 良かれと思っても、小さな親切大きなお節介になるのが、人を気遣う難しさです。
 とにかく主役は相手ですから、相手を見る目線ではいけません。相手が何を見ているか、何を望んでいるかが判断の糸口になります。相手が今思っていて何をしたいかを予測するのです。相手の身になって考えられるようにならなければいけません。

 そのためには、常日頃からちょっとした事で、経験を積むことが大切です。「気配り」や「気遣い」には遠く及ばない事でも、気に掛ける事が必要です。相手を思いやる気持ちを忘れないようにしましょう。

 たとえば、歩道を歩く時は、車道側を歩くとか、エレベーターに乗る時には、扉を片手で押さえて置くとか、後ろを歩いていても扉があれば、即座に前に回って扉を開けるとか。一般的なビジネスマンの心得にあるマナーを実践する事が、「気配り」の出来る人に成長させてくれるものです。

 このような行動を習慣にしていると、その行為をしなかった時に、罪悪感までは行かなくても、違和感が生じます。この何とも後味の悪い感覚が大切です。相手の気持ちはなかなか計る事ができなくても、自分の気持ちは把握できます。私は、その違和感や罪悪感を感じた時が、『礼節』を感じる羅針盤であると思っています。

 ですから「予知能力」と言っても特殊な天分を持っている必要はなく、言い換えれば、情報収集能力と情報分析の方法を駆使する事ができると、予め相手の望む所に手が届くのではないでしょうか。

 この事は、空手の組手を稽古する事によっても、身に付ける事ができます。組手は、相手と対峙します。自分のやりたいように出来る事もあります。私も経験したことがあります。余りにも実力に差があると、相手の事など考える必要もありません。しかし、そんな事は稀です。
 組手が始まると、相手の目線で戦術を考えないといけません。相手が何をしたいのかを、いち早く知る事が勝ちに繋がります。
 なぜ、『五輪書』に『先』の大切さが書かれてあるかを考えて見れば、正に相手の動向をいち早く知って、先に懸からなければならないか、を知る事ができます。「待の先」は「後の先」とも言われています。この待つ事や後に動く事は、決して後れを取る事ではありません。相手の情報を知って先に動くという事です。同じ『五輪書』『火之巻』に『枕をおさゆると云事』と言う項目があります。「打とうする」「う」を押さえる事は、打とうとする相手の気持ちを相手が思うよりも先に予知する事が大切です。相手が思ってしまえば、遅くなります。ですから、察知する推測する、予知能力が必要なのです。

 しかし、 『理解力・咀嚼力・表現力』のように、如何に情報を集め分析が出来ても、表現できなければ、宝の持ち腐れと言うものです。

 この表現が作法であり『礼節』に適っていなければ、折角の「気配り」「気遣い」であっても、相手の心に響かないでしょう。
 空手の場合では、如何に「打とうする」「う」を捉えても、押さえる技術がなければ用をなしません。技術があって初めて戦術となり勝負に活かす事ができます。
 ここで初めて、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」や「足るを知る」言葉と同じ線上に「気配り」が乗る事になります。

 『礼節』と言うものは、さりげなくと言うのが何よりです。

 小笠原家に伝承された教えとして(出典:小笠原敬承斎(1999) 『美しいふるまい』株式会社淡交社.)
『足も手も 皆身につけて 使うべし 離れば人の目にや立ちなん』
『無躾は 目にたたぬかは 躾 とて 目に立つならば それも無躾』
『仮初(その場かぎりのこと)の 立ち居にもまた すなおにて 目にかからぬぞ 躾なるべき』
 この三首の歌にあるように、目立つという事を極端に嫌うのが『礼節』である事を肝に銘ずるべきです。

 これは空手も同じで、押さえる技を持っていも、目立ってしまっては、相手に逆を取られてしまうのと同じです。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。

 この「気配り」は、通常の仕事に対しても同様の事が言えます。仕事の依頼主の気に入るように仕事をしなければなりません。自分が良いと思う事が完璧であっても、相手には不完全に思われるかも知れません。相手の思うように出来て初めて仕事になります。

 しかし、これでは仕事をしたに過ぎません。相手の琴線(きんせん)に触れなければ一人前の仕事とは言えません。仕事の結果に満足以上の驚きを与える事が出来れば、一人前になります。
 私は、常に相手の驚く姿を見たいために、仕事をしてきたように思います。
 目的が達せられたかどうかは分かりません。ただ、それぞれの会社で過分な評価を得て地位を得た事が、その結果と言えます。

 このブログを読んでいる人達の中にも、若い方はおられるでしょう。自分の置かれている立場に応じた「気配り」が出来るようにしてもらいたいと思います。
 『礼節』の目的は出世ではありませんが、『気配り』は、出世の糸口になることは、社会的な動物である限り変わる事はないと思います。