文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【156】

 今日の文字は『時機じき』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第百五十五段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 時機

 



 今日は、クリスマスイブ。外国と違って、クリスマスではなくイブの方が主になっています。

 日本でクリスマスが行われた起源は、1552年と言われていますが、これを始まりとするのはいささか無理があるように思います。

 現在のクリスマスイブは、商業ベースに乗って発展したと考えられます。ですから、一番早い例でも、明治37年に銀座の「明治屋」がクリスマスツリーを店頭に飾ったのが最初ではないでしょうか。

 しかし、当時は首都圏の一部であったのが、第二次世界大戦後に平和になってから、日本全土に、自然に広まったと考えられます。

 ちなみに、私など、物心がついた時には、枕元にクリスマスプレゼントが置かれていました。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第百五十五段 〔原文〕

 世に從はむ人は、まづ機嫌を知るべし。ついで惡しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず、さやうの折節を心得べきなり。ただし、病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず。ついであしとて止む事なし。生・住・異・滅の移り變るまことの大事は、たけき河の漲り流るゝが如し。しばしも滯らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、眞俗につけて、かならず果し遂げむとおもはむことは、機嫌をいふべからず。とかくの用意なく、足を踏みとゞむまじきなり。

 春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月かんなづきは小春の天氣、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる氣、下に設けたる故に、待ち取るついで、甚だ早し。生・老・病・死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期しごは序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。

 

 

『現代文』

『世の中に従って生きる人は、まず時機を知る必要がある。次に悪い事は、人の言う事に逆らい、心にも寄り添わなければ、ものは成しえない。その時々の機会を心得るべきである。ただし、病気、出産、死の場合は、時機を選べない。その順序が悪くてもやむを得ない。物が生じ、とどまり、変化し、滅びる移り変わりの大事なことは、長い河がみなぎって流れるようである。少しも滞る事がなく、直ぐに成し遂げられる。であれば、真俗に拘わらず、必ず成し遂げようと思う事は、時機を言う必要がない。特別の用意もなく、足を止める必要もない。 

 春が終わり夏になり、夏が過ぎて秋が来るのではない。春はやがて夏の気配になり、夏の間に秋の様子になり、秋になると寒くなり、神無月は小春日和、草も青く、梅に蕾がつく。木の葉の落ちるのも、まず落ちて目が出るのではなく、中から兆しがあって、それに答えて落ちる。迎える気を内側に感じ用意が整っているので、待ち受けて交替するのも素早い。生・老・病・死の移り変わりは、もっと早い。四季にはまだ定められた順序がある。死にはその順番もない。死は前からだけ来るのではなく、知らない内に後ろに迫っている。人はみんな死がある事を知って待っていても、急に来るとは思っていない時に、不意に来る。沖の干潟は遠くに思えても、波打ち際から潮が満ちてくるようなものである。』

 

 

『時機』

 ここで言われる時機を得ると言うのは、前置きに過ぎないと思います。言いたいのは、「物が生じ、とどまり、変化し、滅びる」と言う大原則については、時機を考えても仕方がない、不意にやってくる、と言いたいのだと思います。

 最後の干潟と潮の満ち引きの引用は、どうかと思いますが、この段に書かれてある事は、含蓄のあるものだと思います。

 まず、冒頭に掲げてある『機嫌を知るべし。ついで惡しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず』と言う事には、耳を傾けるべきだと思います。

 「幸運の女神は前髪しかない」と言う諺、一度は聞いたことがあると思います。まぁ、私が髪の毛の事を語る資格はありませんが。

 確かに、人生にはチャンスと言うものがあると思っています。それも、一度や二度ではありません。チャンスは何度も何度も巡って来ると思っています。

 これは、学校の勉強、スポーツ、恋愛、仕事などなど、色々な局面に現れては消えていきます。

 そうです、消えていくのです。「幸運の女神は前髪しかない」と言う諺のとおり、後で気が付いても遅いのです。

 ですから私は、チャンスは常に巡って来るのですから、チャンスはキャッチすれば良いと思います。そのキャッチするための方法が、その道に通じる事だと思います。『女神』の前に立たなければ、『前髪』を掴むことが出来ません。

 学業であれば、勉強する事、スポーツであれば練習する事、恋愛であればまず相手を好きにならなければ始まりません。そして仕事の場合はその仕事を良く知る事が先決です。そして何かにつけて風を読む力を養う事だと思います。

 折角チャンスに巡り合えたとしても、そのチャンスを生かす事が出来なければ、単なる通りすがりの人に終わってしまいます。まるで、『異邦人』と言う歌の歌詞のようにです。

 チャンスをチャンスとして認識出来なければ、折角の努力も、水泡に帰してしまいます。見逃さない事です。その為の努力を惜しまない事で、「幸運の女神の前髪」を掴むことが出来ると思います。

 しかし、ここでの本題である、四相しそう、すなわた、『生・老・病・死』のような自然の摂理、大原則のような事に対しては、人間は無力である事を知っておく必要があります。

 であれば、泰然自若としてこれに身を任せれば良いのですが、人間は、どうにもならない事に、あらがいたくなります。これも人間のさがなのでしょう。

 良寛さんが『散る桜残る桜も散る桜』と辞世の句を遺していますが、これも捉え方により、自分の人生を達観できるような清々しい気持ちにさせてくれる事もありますが、逆に投げやりに捉える人もいるかも知れません。

 『裏を見せ表を見せて散る紅葉』、これも良寛さんの有名な句です。

 この二つの句には、四相しそうに対しての、人間の覚悟が如実に表されていると、私は感じています。