論語を読んで見よう
【子路篇13-18】
[第四十五講 直と孝]

 日本で、忠義と言うと、赤穂浪士が有名だと思います。年末になると、どこかのテレビ局で、赤穂浪士の物語が放映されているような気がします。

 この講では、「君に忠、親に孝」と、すでに言葉すら知らない人が、増えていると思いますが、「孝」と「正直」を取り上げています。

 忠義と孝行の対比は、平重盛の言葉として「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」 が残っていますが、現代風に言えば、あちらを立てれば、こちらが立たず、でしょう。

 今回は、「孝」と「正直」です。この場合は、どちらを優先するかが問題です。悩む所だと思います。戦争は経験していませんが、まだその名残はあったのでしょう。「非国民」と言う言葉は、まだ使われていました。自分の親、兄弟、夫や妻であっても、「赤」と呼ばれる共産主義者を憲兵隊に密告すると言う話は、聞き覚えがあります。

 現在でも、自国の主義を守るために、そのような密告者を称えるような、国もあります。

 時代は古代の中国です。しかも、儒教の祖とされる、孔子が「孝」と「正直」をどのように捉えたのでしょうか。

 今回の文章は、前にも白文を載せて、紹介していますが、読み下し文は載せていませんでした。今回は「白文」「読み下し文」を引用して読んで見たいと思います。
●白文
『葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之、孔子曰、吾党之直者異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣』。
●読み下し文
葉公しょうこう、孔子に語りていわく、が党に直躬ちょくきゅうなる者あり。その父、羊をぬすみて、子これを証す。孔子のたまわく、吾が党のなおき者は是れにことなり。父は子の為にかくし、子は父の為に隠す。直きことそのうちに在り』。【子路篇13-18】

 先述しましたように、この子路篇13-18は、【陽貨篇17-13】 にも載せています。内容は重なりますが「親が犯罪を犯した事の証人になった子について、正直者と評価する君主に対して、孔子は、これを正直者とは言わない、人間として親の罪を隠すのが正直で、子の罪を隠すのが親である。と忠孝の間にこそ正直さがあると言っています。」と記述しています。

 そこで、私が言いたかったことは、組織論について語っています。興味のある人は、 【陽貨篇17-13】にある、内部告発の部分を参照してください。

 ここでは、組織論ではなく、『現代人の論語』同様、儒教に視点をあてて、考えて見たいと思います。
 『現代人の論語』に書かれてあるような、『抑圧的な陋習ろうしゅう』、と言うのは良く分かりませんが、ちなみに、陋習ろうしゅうと言うのは、悪い習慣の事だそうです。

 人間である以上自分を考えた時、親は必ず存在します。私のように既に亡くなっている場合もありますが、一生の間に少なくとも親は存在します。と考えるのが自然です。
 いい親もいますし、悪い親もいます。私が良い親かどうか、それは分かりませんが、少なくとも私の親は、私にとって良い親でした。しかし、私の両親にとって、私は良い子供とは思えません。わがまま放題の人生です。

 儒教では、二十四孝と言う書物がありますが、日本の落語にもこの二十四孝を引き合いに出すほど、有名な親孝行の本です。二十四人の親孝行代表の物語です。

 但し、福沢諭吉の「学問のすすめ」八編(わが心をもって他人の身を制すべからず)では、これを痛烈に批判しています。その内容を少し引用すると「・・・・孝行を勧めたる話ははなはだ多く、『二十四孝』をはじめとしてそのほかの著述書もかぞうるにいとまあらず。しかるにこの書を見れば、十に八、九は人間にでき難きことを勧むるか、または愚にして笑うべきことを説くか、はなはだしきは理に背きたることをめて孝行とするものあり。・・・・」とあります。

 私が以前に、組織論としての内部告発に言及したのは、最近のテレビやマスコミでの内部告発の取り上げ方が一方的に思ったからです。

 君に忠、親に孝と言うのは、戦前の教育の根幹をなしていたと思えます。私は、この事に反論する気持ちも、擁護する気持ちもありません。なぜなら、どちらも、私が思うのは、相互の関係が成り立たなくては、成立しないと思うからです。君主には家来、親には子との関係が必要です。

 忠義と言うのは、日本社会で映画や書物で人気のあるテーマです。 新渡戸稲造はその著『武士道』で、忠義について次のように書いています。「君主と臣下が意見の分かれるとき、家来の取るべき忠義は、ケント公(『リア王』の登場人物)がリア王を諫めたように、あらゆる可能な手段を尽くして、主君の過ちを正す事である。もしその事がうまくいかないときは、武士は自己の血をもって己の言葉の誠実を示し、その主君の叡智と良心に最後の訴えをするのが、極めて普通のやり方だった。」

 これは、前に書いた、内部告発の覚悟の問題とは、違い、組織内での換言かんげんの覚悟を表しています。

 封建制度の時代であっても、日本の場合は、忠義は、無節操なごますりや、奴隷のように卑屈な態度で従う分けで無かったのだろうと思えます。これが武士たる者の生き方だったと思っています。
 ただし、諫言するには、それなりの理由と、覚悟が必要だと言う事は、今も変わりありません。人事権を握る権力者に楯突くわけですから。

 なぜ、現在のような自由な社会でも、その覚悟がいるのでしょうか。今書いたように、人事権を握られているからでしょうか。
 自由は権利ですが、権利には義務がつきものです。自分の為だけの自由ではないからです。自分が自由を得ようとすれば、必ず他との関りが出てきます。ですから、憲法に公序良俗に反しない限りと、断りがあるのです。他の迷惑は、すなわち、公序にあたります。この公序を乱さない義務がある事を忘れてはなりません。権利と義務はバランスの上で成り立っています。バランスを崩すためには、相当の覚悟が必要です。単に人事権の問題でもなさそうです。

 では、折角バランスを取っているから、安定していて良いと思われるかも知れません。しかし、時代と共に尺度が変わり、バランスの取り方を変えなければならない、時期も歴史には生じてきます。その時は、既得権益が何重にもありますので、これを壊そうとすると、幾ら良い考えと思っても、相当の覚悟が必要と言う事です。その覚悟が独りよがりであっては、覚悟ではなく、エゴに過ぎません。

 孔子は、「正直」よりも「孝」を優先しました。しかし、この「正直」がエゴでなく、本当に人類にとって正しい報告であったとしたら、私は「正直」を優先すべきと思います。この例のような事については、親を売るような事はしたくありません。これでは、「正直者」と言うより「密告者」です。まして、自分が褒められるためにしたとしたら、尚更です。

 正しいと思われる事は、主義や思想でも違いますが、時代によっても変化するものです。「孝」を優先した孔子は、時代と権力にあらがったのかも知れません。

 忠や孝と言う考え方自体は、決して悪いとは限りません。今述べたような考えが一人一人に合って、お互いの関係を認めて、親に孝、君に忠なら結構な事ではないかと、思っています。いつも、この言葉を使いますが、社会的な動物が人間なのですから。

 この関係にも例外があります。それは、学ぶ事、習う事です。「たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」という親鸞聖人の覚悟です。また、「瀉瓶」という態度です。

 これは、関係ではなく、一方通行の気持ちです。それも、師がそう思うと、関係が成り立ちません。弟子や生徒が思う覚悟です。決して、今先生と呼ばれている人が、弟子や生徒に強要する事ではありません。
 私は、そのように思い、学んできたつもりです。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.
・新渡戸稲造(2005-2014)岬龍一郎訳『武士道』株式会社PHP研究所.