空手の「型」は、なぜ美しさを求める?

  空手は【芸術】か? それとも[武道]か?  

 私が空手を知った当時は、自明であった空手。良くも悪くも「一撃必殺」。 
 映画「姿三四郎」で、柔道は正義、空手は悪者。随分長い間、この関係は続いたような記憶があります。
 それでも、戦後の混乱期を経て、諸先輩の努力の賜物で10年経つか経たない内に、大同団結し、紆余曲折、離合集散しながらも、世界的な躍進を遂げ、ついには、オリンピック参加という、空手界の長年の夢の実現を果たしました。そんな組織の中枢で、私が通った道場の先輩が活躍されていたとは、ちょっと、鼻高々という感じです。全日本空手道連盟副会長の栗原茂夫その人です。
 私が道場を始めた頃には、担当師範として審査に立ち会うため、東京から大阪に何度も足を運んでもらいました。また、若いころは、師範連中と一緒に飲み明かした事が昨日のことのようです。

 空手が世に認められた事に関しては、大いに喜ぶべきことだと思っています。それでも、変遷していく空手を見て、一抹の寂しさを感じているのは、私だけでしょうか。
 「一撃必殺」は、時代にそぐわない事はよく分かっています。それでも、 お習字の通信教育受けてますでも、言いましたが、武術や武道としての空手を探求する結果、人から受ける評価が「美」であってほしいと願っています。
 
 確かに競技として競うという事は、「評価」しなければ勝敗がつきません。その為にはルールが要ります。そのルールは柔道や体操などなど、歴史と共に遍歴を重ねています。より正当な評価に深化していくのであれば良いのですが、人間のすることですから、思惑は介在してもおかしくはないでしょう。

 何も、競技に限った事だけではありません。昇級・昇段という審査においても同じことが言えるのではないでしょうか。
 同じ道場で練習している者どうしでも、相手より上手になろうとするのが向上心です。決して人間として間違った思いではありません。
 しかし、その目標が違っていては、問題です。「きれい」だからでも「バランス」が取れているからでも、「極め」があるからでもありません。武術としての技を行った結果が「美」でなければ、空手とは言えないと思っています。知っておきたいことは「美」とは主観であるという事です。客観的な評価ではない事も知るべきでしょう。

 空手の「型」を例にとって考えて見ましょう。一般的に空手の「型」は、攻防の技が、伝承のため、あるいは稽古の体系として集約されていますので、運足に制約があります。元の位置に戻る、という風に初めから作られています。
 この元の位置に戻ることも曲解され、足の形まで元の位置に戻らなければならないような風潮になっています。もっともっとファジーであるべきです。それぞれ、身長も、体重も、手の長さも、足の長さも違う人間のやる事ですから。

 私はよく道場で、「技は、形から形までの間にあり、極めた形はその結果である」と言います。極めた形から次の動きの間に居つきがあってはならないと思っています。ですから緩急は作られてはいけないと思っています。特に見せるような動きがあってはなりません。それでも技と技の間には自然と緩急は出来るものです。これを評価する目を、自分自身が持たなければなりません。

 当然相手のある格闘ですから、バランスが崩れれば不利である事は言うまでもありません。しかし、バランスを取って攻防の技を行っても、攻防の技にはなりようがありません。リズムを取って技を繰り出しても同様です。結果としてバランスがよく、リズム感が生まれると思っています。
 自分が今行える、最高のスピード・力・呼吸が集約した結果、間ができ、緩急が生まれます。最高の技が施せるよう訓練するのが修行です。
 
 たとえ判定基準が正当なものであっても、正しい姿勢、リズム、バランスなどと言われると、根本を置き去りにして、正しい姿勢リズムバランス極めなどを、強調して稽古するようになってしまいます。審査する側もされる側も心すべき事ではないでしょうか。

【写真】1986,日本空手道連合会,第24回全国空手道選手権大会
    演武種目:松濤館流 型[半月] 演武者 : 若き日のブログ投稿者