論語を読んで見よう
【陽貨篇17-1】
[第十九講 野望家のいざない]

 孔子と言う人物を、いわゆる人格高潔な人柄で、私利私欲がなく品行方正な人と言う、勝手なイメージで『論語』を読んで来ました。

 なんだか、そうでもなさそうです。もちろん勝手なイメージを作って勝手な判断をしてはいけないのですが、『論語』で言われている、衛霊公篇15-28にある『子曰、衆悪之必察焉、衆好之必察焉』、衆これをにくむも必ず察し、衆これを好むも必ず察す、と、人の評判に安易に従う事に釘を刺しています。孔子は、多くの人が悪いと思っても、必ず自分の目で確かめ、多くの人に人気があっても必ず自分で確かめる必要性を説いています。

 しかし、タイムマシーンでも出来ない限り、2500年も前に行って確かめる事も出来ません。やはり、この『論語』から憶測する以外にはありません。

 できれば、前に紹介しました『独行道』(宮本武蔵)のように本人の自筆のものがあれば、読み解く勉強さえすれば、客観的に内容を把握する事もできるのですが。

 さて、今回はどのような孔子を見る事ができるのでしょう。
●白文

『陽貨欲見孔子、孔子不見、帰孔子豚、孔子時其亡也、而往拝之、遇諸塗、謂孔子曰、来、予与爾言、曰、懐其宝而迷其邦、可謂仁乎、曰、不可、好従事而亟失時、可謂知乎、曰、不可、日月逝矣、歳不我与、孔子曰、諾、吾将仕矣』。
●読み下し文
陽貨ようか、孔子をんとほっす。孔子まみえず。孔子に豚をおくる。孔子そのなきを時としてきてこれを拝す。みちう。孔子にいていわく、来たれ。われなんじと言らん。いわく、その宝をいだきてそのくにを迷わす、仁と謂うべきか。曰く、不可ふかなり。事に従うを好みてしばしば時を失う、知と謂うべきか。いわく、不可ふかなり。日月じつげつく、とし我とともならず。孔子、のたまわく、だく。吾まさつかえんとす
』。【陽貨篇17-1】

 もう少し現代風にしてみましょう。『陽貨(時の政治家)と言う権力者が、孔子に会いたいと思っていたが、孔子はなかなか会おうとはしなかった。そこで陽貨は、孔子に豚を贈呈した。当然孔子がお礼に来ると思ったが、陽貨の居ない時を見計らって、お礼を述べに来た。その帰り道に、陽貨と出くわしてしまった。陽貨は、孔子に話がしたいので来なさいと言う。そして孔子に、それだけの資質がありながら、国の乱れを放置しておく事は、仁と言えるのかと、また政治に興味があるにも関わらず、時機を失ってしまう。これで知と言えるのか、言えないだろう。時の移り変わりは速い、直ぐに年老いてしまう。孔子は、分かりました。直ぐにでも仕えるつもりです、と返事をした。』と言う内容の話です。

 この話を理解するには、歴史の背景を少し知っておく必要がありそうです。
 季孫斯(魯の時の権力者の名前)に仕えていたが、反旗を翻し、魯の実権を持ったとされている。時は戦国時代で下克上真っただ中であったのでしょう。

 この陽貨は生年没年とも不詳の人物ですが、孔子と外見は非常に似ていたとの記述もあります。豪傑の名に匹敵する武将を想像させます。孔子は一説によると9尺6寸とありますから、2mを越える巨漢だったかも知れません。この説には色々反論もあることですから、追及する事はしませんが、それでも、陽貨と間違われる程ですから、体格は良かったのかも知れません。この陽貨と間違われた話は、またの講に出てくると思います。『現代人の論語』を参考にしてこのブログを書いていますので、『現代人の論語』のページの進む通りに、進めたいと思います。

 『現代人の論語』では、「ぬきんでた資質を持つ野望家」「卓越した判断力」「豊かな教養」「望みうるすべての素質を備えた人物」と、陽貨に対する記述がみられます。

 その陽貨は、時の人ですから、その人に見込まれたのですが、どうも孔子は二の足を踏んでいたのかも知れません。結局、言葉では、直ぐにでも仕官すると言いながら、結局仕官しなかったようです。これには、時代が目まぐるしく動く時代ですから、陽貨の側にも孔子を受け入れる体制がなくなったとも言えます。陽貨は、反乱を起こしこれに敗れ、魯を去る事になったとの記載がありました。

 この『論語』を読む限りでは、時代の変遷を見据えていたのかも知れません。
 中国でも魯と言う国は当時小国で、しかも三桓さんかん氏(李孫きそん氏・叔孫しゅくそん氏・孟孫もうそん氏)が実権を握っていて、それを陽貨は破り、魯の実権を握った頃の話だと推測しています。

 孔子が生まれてから亡くなるまで、魯の国の君主は、昭公、定公、哀公と君主が変わりますが、陽貨が実権を握ってる時期を除いては、三桓氏と呼ばれる魯の第15代桓公の子孫が実権を握っていました。その中でも李孫氏の独善的で礼を欠くやり方に不満があった孔子は、官職につく事も無く、詩・楽・礼の研究と、指導に没頭していた時期でした。

 そんな中で、陽貨に仕官するよう求められたのですが、本来ならば、渡りに船の誘いであったと思うのですが、すんなりと受け入れる気にはならなかったのでしょう。

 この文章を見る限り、陽貨は、礼を尽くして官職につくよう説得しているように見えます。また、『吾将仕矣』では、『われ、まさに仕えます』と訳せますが、漢文では『将』は、~するつもりである。と言うようにも取れます。と、言う事は、単なる社交辞令にも取れますが、その前に『だく』と言う言葉がありますので、陽貨の誘いに、『分かりました』と言っているようにも受け取れます。

 この文章から『何か』を深く考える事は、私には出来ません。歴史学者であれば、色々な書物から考える事もあるのでしょうが、私は、孔子の人生について、今までも言っていますが、タイムマシンでも出来ない限り、知ることは出来ません。
 私は『孔子』そのものよりも、『論語』の中で、共感できる事や、諺や故事と言われる、言葉自体に興味があります。

 孔子の人間性に視点が移りつつありますが、私が『論語』を読むポイントは、あくまでも、その時々の言葉にあります。『論語』は、どんな風に読んでも、孔子が主観的に、あるいは客観的に書いたものでもありません。孔子の考えが全てでは無い事も、承知しておかなければなりません。

 孔子イコール『論語』と言う考えから、『論語』イコール『歴史の足跡』、足跡から学ぶ、結局『論語』為政篇2-11『子曰、温故而知新、可以為師矣』、『温故知新』に行き当たります。この事をつい忘れがちになります。孔子に対する人物評など、私には全く必要ありません。如何に『論語』から学ぶことができるかに焦点を当てたいと思っています。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.