論語を読んで見よう
【子罕篇9-18】
[第十一講 理想主義者と恋愛(エロス)]

 なんでこういう題名を好んで付けるのでしょう。呉智英氏は、『論語』を現代人にとっての面白さを最優先したと、「はじめに」で書かれています。

 現代人は、こういう恋愛(エロス)のような言葉を好むのでしょうか。この本を購入した時期は、14年程前になりますから、もう言葉として古いのかも知れません。

 それはさておき、孔子の時代では好色な人が多かったのかも知れません。最近の男性は草食系とか言われていますが、果たしてそうなのか、私には分かりません。

 孔子が戒めた「淫」すなわち、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」が節制しすぎたのか、それとも、経済的な理由からか、理由は色々あり一概に断定する事は出来ませんが、男女の関係が逆転したのかも知れません。

 男女平等と言われてから、およそ半世紀程立ちますが、未だに男女が平等とは言えません。私から見ると、女性が男性化し、男性が女性化ているだけのように見えます。男女平等と言うのは、権利義務の事であって、決して男女が区別されなくなる事ではないと思うのですが、如何でしょう。

 今回も『論語』に目を通して見ましょう。
●白文

『子曰、吾未見好徳如好色者也』。
●読み下し文
『子曰く、吾未(いま)だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり
』。(子罕篇9-18)

 やはり、色を好む人は一生懸命なんですね。ここで言われている「色」は、般若心経の色即是空の色でない事は、分かります。
 『現代人の論語』の作者は、この色の事を、「情交、美女、さらに、美女の美しい顔、顔つき一般と意味が広がっている。色を好む、というのは、情交を好むというより、美女を好むと解する方が自然だろう」。と言っています。
 さらに、「徳」については、「有徳者」すなわち「理想主義者」と書かれています。私には「有徳者」が「理想主義」とは思えませんが、そういうロジックになっているのでしょうね。

 今でも、見てくれは大切ですね。ただ美的感覚と言うのは、時代により、かなり変化していますし、個人的にも美に関しては好き嫌いもあります。だからこそ世の中はうまくカップルができるようになっているのでしょう。でなければ美人、美男子の取り合いになるでしょう。

 それは兎も角、理想主義者とは言い過ぎではないですか。孔子はこれまでの僅かな『論語』の中にも、現実を軽視する事は無いような気がします。もちろん、理想主義と言う言葉を、
1) 現実にとどまるのではなく、理想の実現をめざそうとする立場、生き方。
2) 自然をあるがままに描かず、様式化し、理想化して表現しようとする美術上の立場。
3) 文学の意義を倫理的社会的理想の実現におく立場。近代文学では、写実主義に対立した、幸田露伴・夏目漱石、また白樺派の人道主義に見られる。
(出典:大辞林 第三版 三省堂.)
 あるいは、
1) 理想を立て、実現しようとする立場。空想的、観念的な性格をもつが、現実を改革する重要な基盤ともなる。アイデアリズム。
2) 現実をありのままに描写せず、何らかの理想に即して、美的、倫理的調和のうちに表現しようとする芸術上の傾向。
(出典:デジタル大辞泉 小学館.)
 上記のようにある仮説を立て、それに向かって実現しようとする主義と捉えれば頷けるのですが、理想主義者と言うのは反面、空想的で現実を軽視する側面も持っているように思います。特に、ここで言われているような理想主義者と言われる事には、いささか拒否反応を起こしてしまいます。

 これは、言葉上の問題ですから、どのような意味で理想主義者と言っているのか定かではありませんが、私には、現実離れした空想主義のように聞こえてきます。

 確かに、『論語』にしても釈迦の言葉にしても、聖徳太子の十七条憲法も絵空事と言われてしまえばそれまでですが、私は人間にはそんな目的が必要なのではないかと思っています。会社で言えば社是のようなものです。

 それだけ、人間は目的、目標を見失ってしまう動物なのかも知れません。

 話がそれてしまいましたが、ここでは、なかなか『徳』を求める人がいない事に対する愚痴のように聞こえるのですが、どうでしょう。
 確かに孔子の時代でも、それから1000年程経った日本でも、それから1500年も経った現在でも、『徳』と言った言葉や『礼』と言った言葉にすら、嫌悪感を持ち、あるいは『それなに?』と言う人がいる事が、現実です。
 孔子の時代では、その考え方自体が民衆に広がっていなかったのではないかと思います。ですから、孔子は、その思想によって、世の中を良くしようと、思想を説いていたのではないでしょうか。

 まだまだ考え方が稚拙な時代に、為政者は何か確固たる信ずるべものを模索していたのかも知れません。今でも未開の土地に限らず、権力者は占い師などの理論では解決できないものに、すがりたくなるようです。
 であれば、孔子が言う『詩楽礼』と言う教えに、耳を貸す人も少なかったと思います。
 
 現在でも、「幸せと言うものに対する感覚は、人それぞれ百人百様だと思います。ある人は、経済的な余裕を求め、ある人は、美人美男子との交際を、またある人は権力を求めるのが世の中の常であると思います。また、経済的に満たされれば、安全や安心を求め、次には権力や栄誉を求めます。そして全てが満たされても、不老長寿の夢は昔も今も変わる事はありません。

 その時代により違うと思いますが、現代では、経済的に満たされる事が、全ての幸せを得る事ができると、思っている人がいる事も事実でしょう。
 また、その人が現在いる環境でも、幸せ感は違ってきます。昔は、食事ができる事に喜びを感じた時もあったでしょう。戦争中は、生きているだけで幸せを感じる事ができたでしょう。

 色々な時代があっても、ひたすら『人格』を高める事に幸せを求める人が、数少ない事は、今書いた「幸福感」を考えると明白ではないかと思っています。それでも尚且つ『人格』すなわち、『徳』を求めて生きるには、二つの理由が思い浮かびます。

 一つは、『徳』を得る事によって、立身出世、あるいは権力を持つ事が出来ると思っている人、正に、 子張のような人です。

 今一つは、人間として「かくあるべし」と思い、『徳』を求める人です。この場合は、色々な環境や先輩、あるいは先生と呼べる人に出会い、また座右の銘に当たる言葉や本などに出合って、心が惹かれた場合に、その道を進むと思います。

 この場合は、美人や美男子を求めたり、経済的な幸せより、権力を持つことへの誘惑などにも増して、その道に惹かれるのだと思います。
 私は、これもバランスだと思っていますが、時には『人格』に対する道に傾倒する時期があって、初めてその奥の深さと魅力が分かると思っています。
 私は『色』に対する誘惑も『人格』に対する誘惑も、どちらも人間が持ち合わせている資質だと思っています。 

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.