文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【22】

 今日の一文字は『花鳥風月』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二十一段』を読んで見て、感じた文字です。あっ、一文字ではなかったです。

原文 現代文を見る 自然 洗われる

 昨夜は、スコールのような雨が一瞬降りました。少し涼しくなるかと思いましたが、逆に蒸し暑く、寝苦しい夜になりました。

 暑さ寒さも彼岸まで、と言いますが、今年はどうなんでしょう。天気予報を見ると、一時の38度越えはなさそうですが、油断なりません。

 今日も日課の体操をすませて、今はイモが焼けるのを待っています。

 このイモが、季節によるものなのか、6月はどこで購入しても、ハズレのものばかり。ベチャベチャのサツマイモでした。来年は5月に仕入れて置いた方が良さそうです。1ヵ月持ちますかね。まぁ、何でもやって見きゃ解らない主義ですから、と言いながら、一年後は忘れているでしょう。日増しに物忘れが激しくなっています。

 横にコンピュータがないと、会話も儘なりません。特に俳優さんの名前など、『えーと、あの人、何とかにでていた人』って言われても、番組名も俳優さんも分からないのに、あれ、それ、これ、でよく会話が成り立っていると思います。

 7月になると、ガラッと様子が変わり、どこでも美味しいサツマイモが買えています。
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二十一段 〔原文〕

よろづのことは、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、又ひとり、「露こそあはれなれ」と争ひしこそをかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。

月・花はさらなり。風のみこそ人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るる水の気色こそ、時をもわかずめでたけれ。「げんしょう日夜、ひんがしに流れ去る。愁人しゅうじんの為にとどまること少時しばらくもせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康けいこうも、「山沢さんたくに遊びて、魚鳥ぎょちょうを見れば心楽しぶ」と言へり。人遠く、水・草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰む事はあらじ。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『大概の事は、月を見れば慰められる。ある人が「月ほど風流な物はない」と言えば、また一人が「露ほど趣がある」と、言い争う事も愉快である。これも時期と言うものがある。
 月や花は言うまでもないが、風もまた人の心を動かす。岩に砕ける水の景色は、時期を選ばず素晴らしい。「げんしょう日夜、ひんがしに流れ去る。愁人しゅうじんの為にとどまること少時しばらくもせず」(※1)と言う詩を拝見したが、これは情緒がある。嵆康けいこうも、「山沢さんたくに遊びて、魚鳥ぎょちょうを見れば心楽しぶ」(※2)と言っている。
 遠くに出かけても、水草の清い所をさまよい歩くばかりでは、心が慰められることもない。』

※1 『元・湘(中国の川)は日夜、東に流れている。愁えている人のために流れを止めることは、少しの間もない』
※2 『山や沢で遊び、魚鳥を見れば、心も楽しい』嵆康けいこうは、中国三国時代の魏の文人。

 

『自然』

〔破壊〕

 果たして、自然は人間を必要としているのでしょうか。このまま行くと、自然を破壊するかも知れません。

 太古の昔から、人は自然の脅威を恐れ、自然を崇拝し、そして自然を、開発と言う人間にとっての大義により、破壊を繰り返してきました。

 人間の過去は、自然と共に歴史を歩んできたように思います。川の氾濫と共に土壌が造られ、そして、川のほとりに人々は暮らすようになった事は、みんな知っていると思います。自然の恵みと共にあったと思います。

 いつの間にか、その自然の摂理から遠ざかってしまったのは、自然ではありません。人間が自然から距離を置くようになったのだと思います。

〔文化〕

 兼好の時代と言うより、つい最近まで、自然をめでる行為は、人間の文化であったと思います。ですから、和歌や俳句、外国でも歌や詩が文化としてその地位を確立して来たのではないでしょうか。

 もちろん、兼好が言うように、『人遠く、水・草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰む事はあらじ。』と、味わう気持ちがなければ、めでる事もできないとは思います。

 経済だけを優先して、どこに終結しようとしているのでしょうか。今の生活を維持しながらでも、人間はもっと自然と密着する事ができるのではないでしょうか。いや、その必要を感じています。

 テレビ番組の「プレバト俳句」夏井先生のキャラクターと知識が、俳句と言うものの底辺を広げたと思います。いつもその説明の深さに感服して見ています。また、その功績は素晴らしいと思っています。

 書道や空手道と同じで、基本は大切な要因ですから、知識も色々な俳句を研究する事も必要だと思います。

 しかし、大切な事は、自然を感じる心だと思います。価値観が余りにも偏り過ぎたようです。少し、みんなで偏った芯棒を元に戻して見ませんか。

 やはり、自然と共に歩むのが人間本来の姿ではないでしょうか。

 アメリカでは、「宇宙軍」を作ろうと言う話が出てきました。戦う事より、勝つ事より、人間にはもっと良い智慧があるはずです。

 

『洗われる』

 心が洗われる、と言う言葉を耳にする事があります。命の洗濯と言う人もいます。

 歳のせいか、最近は「目から鱗が落ちる」事に滅多に出会いません。45歳くらいまでは、毎日のように「あっ、そうか !」と思っていました。

 勉強不足で、知らない事が多すぎたのかも知れませんが、気付きの連続でした。

 中でも、人の優しさや思いやりを感じると、他人事でも「ほっ」とする事があります。

 普通は、自然に接した時や、旅先で、心が洗われるような清々しい気持ちになるのでしょうが、私は人の思いに、清々しい気持ちにさせられる事が多いです。その時は、心が休まるというか、心が洗われたように感じます。

〔パワースポット〕

 このごろ、と言っても、もう古いかも知れませんが、パワースポットと言われる場所に行くと、心が癒されるとか、心が洗われると言われています。

 富士山や岬、深い森、滝など様々所に、このパワースポットがあるようです。

 混雑している時は感じないのですが、寺院や神社など、閑散とした時期に訪れると、そんな気分を味わえます。

 50年以上も前の事ですが、高野山にもそんな威厳と言うのか、深遠と言うのか、心を清められるような気持ちにさせてくれる場所が沢山ありました。

〔開発〕

 10年程経ってから、道場のみんなと合宿に訪れましたが、私が籠っていた山が切り崩され、道路が造られていました。なんだか、寂しい気持ちになったものです。それから何度か合宿の地として訪れましたが、ドンドン開発されていったように感じていました。

 そして、20年程経ってから、父親と共に家族で訪れましたが、なんと、奥の院の横まで車で行けるようになっていました。確かに便利にはなりました。しかし、なんだか違うように思ってしまいます。私にとっては、味気ない気がしたものです。

 やはり、人間は自然と共にあるのかも知れません。