テレビ視聴者として、一言。
私はこう考える。という人は、賢い人だと思います。これはあくまでも私見で、皆がそう考えてると検証した分けでは無い事を表しています。
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私の言う事は、正しいと言う人は、流石にいないと思いますが、最近テレビを視聴していて思うのは、他の出席者に反論させないような同意の求め方をする司会者がいます。局の指示なのか、思惑なのかは分かりませんが、MCと呼ばれる人が、あまりにも権力を持ちすぎて、その人の意見が強引に通されていくのを観ると、なんとも後味の悪い番組になってしまいます。
自分と違う意見を言ったら、まるで次には番組にださないぞ、と言わんばかりの剣幕で相手の意見を制します。これも笑いを取るためのテクニックなのでしょうか。
前回同様原文は、下記のバーをクリックすると見る事が出来ます。
漢文では、『背私向公 是臣之道矣 凡人有私必有恨 有憾必非同 非同則以私妨公 憾起則違制害法 故初章云 上下和諧 其亦是情歟』。
読み下しでは、『私に背き公に向うは 是臣之道矣 凡そ人と私が有ば必ず恨有り 憾み有ば必ず同じく非ず 同く非ば則ち私を以て公を妨ぐ 憾起は則ち制に違え法を害す 故に初の章に云く 上下和を諧えるは 其亦是情歟』。
では現代文にして見ましょう。
『私心によらず公務に向かうのは、臣下としての道である。皆、私心があれば必ず恨みが生じる。憾みあれば必ず背く事になる。背く気持ちがあれば、私心で公務をさまたげる。憾みが起これば制度を破り法を犯す。ゆえに、初めに挙げたように、上の者も下の者も共に和む事が叶えられるように言った言葉である』
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この条は、一言で言えば、「素直」という言葉を充てる事によって理解出来るのでは無いでしょうか。
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私の若い頃を振り返ってみますと、兎に角、素直では無かったように思い、反省することばかりです。ここに書かれてあるように、私心と思えれば、少しは素直になれたのかも分かりません。私心と言うとなんだか格好が良い響きですが、自分勝手な考えの事を言います。
なぜ素直になれないかと言いますと、相手の言う事にいちいち納得がいかないからです。これは、言い方を変えると、自分の考えが正しい、と思っているからだと思います。今でもそんな考えが時々、顔を見せます。
そんな時に、「断片化された知識量で人を試す戦後教育の犠牲者なのかも知れません。」【(光延 昴毅)氏(国際開発コンサルタント)】を思い出す事にしています。
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私たちは、戦後の教育で自分の意見を言える社会を築いてきました。しかし、折角自分の意見が言える機会を与えられたにも拘わらず、知識量が足りなさすぎだと思っています。特に私のように勉強もろくにしなかったにも拘わらず、ある程度の地位に就いた者は、勘違いしてもおかしくないのではないかと思います。これは、あくまでも言い訳に過ぎません。もっともっと確かな判断ができるような知識を得る必要がありそうです。
しかし、私の人生は、私が正しい判断が出来る知識を得るまで、続くとも思えません。
であれば、『礼節』を欠かないために、「素直」になる事がもっとも手っ取り早い方法かもしれません。
私は何か教えてもらう時には、「瀉瓶*」という方法をとります。実に私にとっては、適した方法だと思っています。この方法でなければ、何かと、疑問が浮かび、口は挟まないまでも、反論ばかりが頭を占領し、何も教えを受けられなくなります。そんな時には、自分勝手な考え方を、横に置いておいて、まず、受け入れる事を優先します。
自分が正しいと思っているのですから、直ぐには自分の考えを捨てる事ができません。ですから、ちょっと横に置いておくのです。「朝鍛夕錬」ですから、学んだことを復習する事も大切です、いわば反芻するのです。その時に、ちょっと横に置いてあった自分の考えと議論するのです。相手は自分ですから、人に対してよりは「素直」になれます。その結果、習ったものは、自分の考えとして定着していきます。一度では無理だと思いますが、何度も繰り返し反芻する事で、身に付けられると思っています。
人から教えてもらう時には、このようにして「素直」になれるのですが、議論となると、またまた「素直」さの欠片も出てきません。「断片化された知識量・・・」という光延昴毅氏の言葉を思い出して、『礼節』を欠かないようにしたいものです。
【言葉の意味】
瀉瓶 : 瓶びんの水を他の瓶にうつしかえる意〕 仏教の奥義を師から弟子にもれなく伝えること。写瓶相承。[出典]『大辞林 第三版』三省堂.