『礼と節』を表現してみよう。 Part-24 4. 『礼節』として伝えられている作法-----【しつけ】

『礼節の作法』目次
1.礼の仕方  座礼  立礼
2.食事の仕方   和食  洋食
3. 座席の順序
4.ビジネスマナー  名刺  時間  文書  続文書   続続文書
5. 参列の仕方
6.しつけ
7.和室での礼儀
8.洋室での礼儀
9.同席の仕方
10.気配り
11.立てるという事
 「しつけ」と『礼節』の関係について、私が思うところを書いて見たいと思います。
 『礼節』を表現しても、心の伴わない付け焼き刃では何の意味も持たないと考えています。

 聖徳太子の十七条憲法は、嘘偽りの心から達成できるものではありません。1500年もの間、人間が理想としながら追い求めても社会の中に浸透できなかったのではないのでしょうか。

 人間は、思う事とする事の間にどれだけ解離する事があるのでしょう。一人の心の中にも善と悪が混在しているように思えます。個人個人が違う環境にあり、違う知識や経験から考える事には、違いがあっても当然と言えば当然の事かも知れないのです。

 ですから、表面的には品行方正を絵に描いたような人が犯罪を犯したり、人の範となってほしいような人達が悪い事を平気でする事があります。
 特に『礼節』を重んじる事を人に対して講演したりする人に限って、裏ではまったく違った人間性を持っている事もあります。昨年話題になった議員でも、二面性をあらわにしました。この人だけではありません。議員や社会的に地位のある人にはあって欲しくない人間性の人が沢山います。サイコパスと呼ばれる人が権力を持ち人を支配する事は、決して人類にとって良い傾向ではないと思います。
 残念ながら1500年も前から社会はそういう問題を抱えていたのかも知れません。聖徳太子はそんな社会に警鐘を鳴らす意味で、十七条憲法を示したのかも知れません。

 昔は学校の先生やお医者さんは、宗教的な意味合いではなく、聖職と言われていた頃がありました。医は仁術とも言われていました。この中には『礼節』や『徳』を有する人がいると思います。
 こういう事を言う時は、悪いのは一部の人と言うのが慣例と思いますが、最近の事情を見ると、そうとばかり言っていられないように思っています。

 「衣食足りて礼節を知る」と言います。正にその通りと思っています。私の人生を振り返っても、「無い袖は振れない」事が度々ありました。それでも僅かでもその気持ちを表す事が『礼節』だと思っています。

 このような『礼節』に適う事が表現できる事は、言い換えれば幸せな事なのかも知れません。相手に対する思いも、余裕があって初めて実現できるのかも知れません。

 私は、空手道を初め武道に勤しむ人たちが、強さを求めるのと並行して『礼節』を表現できるようにする事は、余裕のなせる業ではないかと思うのです。「衣食足りて礼節を知る」のと同様、肉体的精神的な強さが人に対しての優しさや思いやりを表現できるのではないでしょうか。

 ただし、足りるのと過ぎるのでは、余りにも違いがあります。『礼節』で言えば、節度を越えてしまう事です。
 飽食の時代と言われて久しいですが、いい加減落ち着いた国造りをしてもらいたいものです。右肩上がりばかりが人間の幸せではないのです。

 『礼節』というものは、社会的な動物である人間が、社会生活を円滑にするために編み出した叡智であると信じています。

 しかし、『礼節』を知る事は容易であっても、『礼節』を身に付ける事は、時間がかかります。小さい頃からの習慣や考えが『礼節』のある人を形作っていくと思っています。
 孟子が言う性善説よりも、荀子が言う性悪説よりも、私は聖徳太子の言う善も悪も持ち合わせているのが、人であると言う考えに共感します。

 人は『礼節』を弁える事により善を行うようになり、『礼節』を欠く行いが悪を生むのでしょう。その『礼節』を行える人になるために、『しつけ』が必要だと思います。

 なんだか、こんなに一生懸命力説すると、「こじつけ」か「屁理屈」のように感じる人もいるかも知れません。それでも構いませんから、世の中が『礼節』を弁えた人で満たされたいと願っています。

 『礼節』と言っても自分の中で思想として考えていても、表現する事の出来ない人は、『礼節』の備わった人ではありません。私が社員教育で行った 『理解力・咀嚼力・表現力』があって初めて意味があります。そのどれが欠けても用をなしません。
 
 『しつけ』と言うのは、『礼節』を表現できる人になるためのものです。時々ニュースで聞く事がある「子供に対する虐待」とは目的が真逆です。虐待と言うのは、虐待する側のストレスのはけ口に過ぎません。『しつけ』には躾ける人も、躾けられる子供も、どちらにも忍耐が必要です。
 このどちらも、と言う事を躾ける側は、十分理解していなければならないと思っています。
 人間は本来自由なものだと思います。いや、自由気ままなものと言った方が良いでしょう。
 もし、社会的な生活を営む必要が人間になかったら、本来持つ自由気ままでも良いのだと思います。

 よく、「ありのまま」と言う言葉を聞きます。耳障りの良い言葉です。私は「ありのまま」で良いのなら、争いごとは起こらないし、戦争にもならないと思います。憲法も法律も、政治も組織だったものは必要ありません。
 「ありのまま」で良い人は、限られています。社会的に生活できる素養を生まれながらに持っている人か、十分な「しつけ」をされて大人になったか、あるいは天分才能があり、周りの人に保護されている事に無頓着でいても許されている人にのみ、「ありのまま」と言う言葉が当てはまると思っています。

 私から言うと、色々な悩み苦しみに追い詰められた人に対して言う、慰めにもならない、「おためごかし」(人のためであるかのよう見せかけること)や「綺麗ごと」にしか聞こえません。

 もちろん、人生の中で自分で乗り越えられない事に出くわす事もあると思います。そんな時でも、「ありのまま」と居直る事は勧めません。その事から「逃げる」事も必要です。あるいは一旦距離を置いて、もう一度チャレンジするとか、真正面から悩み苦しむことだけが正解でもないのです。人には「ありのまま」でいる事も「自分を変える」事も許されているのです。

 であれば、少しづつでもよいから、自分を変えて行くことに取り組めば、必ず道は開けると思っています。そんな能力を人間は、一人ひとり持って生まれてきています。
 生まれながらに、保護されないと生きていけない人もいます。しかしそうでない人が「ありのまま」と居直る人生より、自分を変えて切り開く人生を選んだ方が充実した人生を送れるのではないでしょうか。

 

 会津藩には子供たち同士で集まり『しつけ』をする習慣がありました。「什の掟」と言います。6歳から9歳までの子供たちの年長者が座長になり、次の項目については話す習慣です。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
 そして、この掟に背いた者に、子供たちが罰を与えました。これも子供たちが作ったルールです。大人に強制されたものでは無かったことが会津藩の誇りだと思います。

 また、寺子屋では「三字経」を子供たちがこぞって読んだと聞きます。
 江戸時代が歴史上稀と言われる程、平和な歴史を経た事には、そんな「しつけ」が生きていたのかも知れません。

 御釈迦様が最後に残した言葉『自灯明』、「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきて誰によるべぞ、よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」を常に心に置きたいと思います。天下を取った徳川家康でさえ「人生とは重き荷物を背負って坂道を登るようなもの。 忙ぐべからず」と言っているのですから。

 「しつけ」は、親が、先生が、指導者が自分の気に入るような人を作るためにあるのではありません。まして、自分自身が自分勝手な自分を作るためでもありません。社会に適応できる「人」に「しつけ」る事が目的です。

 その理由、それは、躾けられる人が生きやすくなる事が一番です。そして、周りの人にも迷惑がかからない振る舞いができる人にはチャンスが巡ってきます。「人」として生まれ「人間」に成長してもらうために「しつけ」があると思うのです。その根本にあるのが『礼節』なのです。