文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【44】

 今日の一文字は『覗』です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第四十三段』を読んで見て、感じた文字です。

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 台風の前の静けさでしょうか。

 今朝の3時現在では最大瞬間風速70m、最大風速50mで大東島に近づいている模様です。進路は相変わらず、室戸岬から紀伊水道を北東に進む予報ですから、まだ復興していない地域を直撃する可能性があります。

 自然の中で暮らしている私達には、もう少し自然と仲良くできる方法があるのではないかと、思ってしまいます。

 昔の人が、たたりだといった気持ちも分かるような気がします。

 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第四十三段 〔原文〕

 春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く、木立ものふりて、庭に散りしをれたる花、見過しがたきを、さし入りて見れば、南面(みなみおもて)の格子、皆下してさびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどに開(あ)きたる、御簾(みす)のやぶれより見れば、かたち清げなる男(おのこ)の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。

 いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。

 

 

『現代文』

 まず、我流で現代文にしてみましょう。

 『  春の終わりに、のどかで風靡ふうびな空の下に、地位が低い人の家とは思えないたたずまいの奥深くに古い木立があり、庭にしおれた花がある。見過ごしがたく、中に入って見れば、南側の格子がみんな下ろしてあり、寂しい感じがしたが、東側の両開きの扉は少し開いている。御簾みすずの破れから覗いてみると、姿が清々しい20歳くらいの男性で、くつろいだ様子ではあるが、上品で穏やかな様子で机の上に書を広げて見ていた。
 どのような人だろう。聞いてみたい。 』

 

『覗』

 良いんですかね、この時代では。人の家の庭に勝手に入って、家の中をのぞき見する事。それこそ、のどかな感じを逸脱している気がします。

 今でも田舎に行くと、そんな風情が残っているのかも知れません。

 大阪でも60年程前には、のどかな風景もありました。それでも、勝手に人の家の庭には入れませんでした。

 しかし、家の中の様子を見るのは、悪趣味ですね。だいたい今なら逮捕されますよ。

 ちなみに、この場合は、軽犯罪法違反(窃視)の罪の他、家に侵入していると思われますので、住居侵入罪。場合によっては、迷惑防止条例違反の罪に問われる事もあります。

 しかも、20歳くらいの男性ですよ。私には想像もできません。女性ならともかく、って、これもダメです。

 また、この状況は、昔お金持ちであったようですが、逼塞ひっそくして家の修繕も、庭の手入れも儘ならない家庭で、しかも健康でありながら、働きもせず、のんびり暮らしている。放蕩息子ほうとうむすこのような気がします。どこに品の良さを見たのでしょう。

 時々、吉田兼好と言う人の感性を疑うような文章が見えます。本人が、徒然なるままに、他愛もない出来事を書き連ねている、と書いているのですから、これも他愛もない事なのでしょう。

  この時節の風景を叙情的に書き表してあると、高評価をしている文献もあるようですが、であれば、もっと文学的にも人を引き込ませるような文体であっても良さそうと思います。

 断っておきますが、私は文学的素養はないと思っていますので、これは間違いの評価であってほしいと思います。

 まぁ、心に浮かぶ事を、正直に書いているだけと、今回はしておきましょう。それ以上の感想はありません。

 では、吉田兼好と言う人はどういう人なのでしょう。

 こんなエピソードを見付けましたので、紹介します。吉田兼好の和歌とされる歌があります。

 「夜も涼し 寝覚めの刈穂 手枕も 真袖も秋に 隔てなき風」

 親友の頓阿法師に送ったとされています。
 そして、頓阿法師は、次の歌を返しています。

 「夜も憂し ねたく我が夫こ はては来ず なおざりにだに しばし訪ひませ」

 吉田兼好の歌を節で区切って見ますと、

 夜も涼し(もすず)
 寝覚めの刈穂(ざめのかり)
 手枕も(まくら)
 真袖も秋に(そでもあき)
 隔てなき風(だてなきか)

 これを左端だけ上から読むと、よねたまへ(米賜へ)、右端を下から上に読むと、ぜにもほし(銭も欲し)となります。
 ちなみに、古文では「こめ」を「よね」と読むらしいです。

 続けると、米賜へ、銭も欲し。と友人に無心しているように思えます。
 この無心と言う言葉は、「遠慮なく人に金品をねだること。」(出典:大辞林第三版 三省堂.)から意味を調べて使っています。

 この和歌に、友人は和歌で返しています。

 夜も憂し(もう)
 ねたく我が夫こ (たくわがせ)
 はては来ず(てはこ)
 なおざりにだに (おざりにだ)
 しばし訪ひませ(ばしとぶらひま)

 やはり、左上から下に読みますと、よねはなし(米はなし)、右端を下から上に読みますと、せにずこし(銭少し)と読めます。続けると、「米は無し、銭少し」となります。
 折句おりくと言う知的な遊びだと思われます。

 実に面白い友人関係ですね。

 ここに紹介した頓阿法師も兼好法師も、南北朝時代の和歌四天王と呼ばれる程の人達です。