『現代人の論語』に付けられた題名が「淫」と恋歌。『論語』と如何なる関係があるのか、興味をそそるところです。
まず、「淫」という文字から解決しましょう。どうも、この『論語』に似つかわしいとは思えないので。
というか、『論語』の中にある言葉ではなく、『現代人の論語』の作者が、なぜ「淫」という言葉を使ったかに興味を持ちました。
で、「淫」の文字を調べて見ました。私はてっきり「淫行」などの言葉を想像していましたが、まさに、下衆の勘繰りでした。
「度をすごして物事に熱中する。耽溺する。おぼれる。」(出典:大辞林 第三版 三省堂.)とありました。私が想像した意味も含まれていましたが、ここでは、「度を越す」意味で使われたのでしょう。
これは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と同じ意味で使われています。
さて、「恋歌」の方に目を移しましょう。日本でも文化と言われている中には、「源氏物語」や「伊勢物語」など「恋愛」をテーマに綴られた作品が多く見られますが、小説だけではなく、「万葉集」の中の「相聞歌」、「古今和歌集」にも恋歌が見られます。
もちろん、時代は、今と倫理観も男女に対する考え方も違った時代ですから、俄かには読み取れないかも知れませんが、気持ちの現れは今も昔もさほど変わる事がないとも思います。しかし、これは日本文学での話であって、孔子の時代の恋歌などは想像する事もできません。日本では縄文式時代の末期ですから。
ここで取り上げられているのは、「詩経」には編集されていない、古謡という歌の一つだという事です。
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では、『論語』を見て見ましょう。
●白文
『唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也夫、何遠之有』。
●読み下し文
『唐棣(とうてい)の華、偏として其れ返せり。豈に爾(なんじ)を思わざらんや。室是れ遠ければなり。子の曰わく、未だこれを思わざるなり。夫(そ)れ何の遠きことかこれ有らん。』。(子罕篇9-32)
文章だけを見て見ると、他愛もない言葉のやり取りと思いますが、そういう読み方をすると、「論語読みの論語知らず」になるのでしょうね。
では、「論語読みの論語知らず」風に読んで見ましょう。「唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而」が歌の文句です。「唐棣」は、庭梅(木蓮・庭桜)の事ですから、「庭梅の花が舞い散る時に、これを見て貴女(貴男)を想っています。逢いたいのですが遠く離れていて逢う事もできません。」という歌に対して、孔子は「未だこれを思わざるなり。」すなわち、まだまだ想いが足りない、もし恋焦がれるならば遠い事は厭(いと)わない。「何遠之有」と「鼻で笑っている」ように思えます。
私もそう思います。もちろんどれほど離れているのか、想像も出来ませんし、今のように交通の便が発達していなかった時代です。孔子としては、それでも、行けばいいじゃないか、と思ったのでしょう。
『現代人の論語』の作者は、他の篇を挙げて、「淫した詩歌」(行き過ぎた詩歌)を否定している事を示しています。
作者の引用した八佾篇3-3を見て見ましょう。
●白文
『子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷』。
●読み下し文
『子曰(のたまわ)く、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず』。
内容は、いたって表面的な言葉ですが、この言葉は生きていく上では大切だと思います。この言葉を知らない時に、私は人にこの方法を勧めていました。
關雎と言うのは、渡り鳥の一種ですが、種類は違うと思いますがオシドリのように雌雄が仲の良い水鳥です。
ここで取り上げた八佾篇3-3は、詩経にある關雎という詩の事です。この歌は楽しみが度を超すことなく、悲しみも立ち直れないようなものでは無い事を評価していると思います。
私はこの方法を勧めたと書きましたが、悩み苦しみは、若い頃の生活の一部のように経験すると思います。ある時私は、悩み苦しみから逃げる事は、恥ずかしい事のように思っていました。ですから徹底的に考え抜く事を日常にしていました。それでも、自分で解決できない事は、世の中に五万とあります。その一つ一つに真面(まとも)に付き合っていたら、身が幾つあってもたりません。ストレスの温床です。
ある時、一生は限られている事に気が付いたのです。いまさら、と思われるかも知れませんが、本当に一生は限りがあります。ですから、解決できない事に付き合っている必要はないのです。
自分が解決できることは、自分とか他人とか関係なく深入りします。しかし、解決できない事は、自分の事も他人の事も感知しない事にしています。ですから、人から見て情の薄いと見られることがあると思っています。それでも、深入りする事のマイナス点を考えれば、薄情もやむなしです。人生は限りがあるのですから。
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.