前回宰我について、少し触れました。ただ漠然と孔子と相性が悪いという事は分かりましたが、ここでも考え方の違いが現れる文章がありました。
前回は、単なる悪ふざけとも、取れない事はありませんが、ここでは、『礼』と言うものに対する考えの違いが如実に表れています。
孔子の考えは思想ですから、それまでシステマチックに、人間の生き方を語った人がいなかった所に、孔子と言う思想家が現れました。ですから、その思想を学ぼうと、時の権力者や貴族、あるいは下級武士の間で、評判になり多くの弟子が孔子の下に集まったと思われます。
宰我もその一人ですから、素直にまず学ばなければならないと思っています。「瀉瓶」が学ぶ基本だと、私は今までに言ってきました。
もちろん、人から何かを学ぼうとする時、何も「瀉瓶」だけが、その方法ではありません。
背中で人を教える方法もありますから、背中を見て覚える事もできます。あるいは、見取り稽古のように、盗み取る事も、学ぶ方法です。
時には、先生と生徒が、侃侃諤諤と意見を戦わせて、学ぶと言う方法もあると思います。大学ではディスカッション方式やゼミ(セミナー)など、色々な教育技法を取り入れている所もあります。
ここで、宰我は、孔子とどのような議論を交わすのでしょう。
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では、『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『宰我問、三年之喪期已久矣、君子三年不為礼、礼必壊、三年不為楽、楽必崩、旧穀既没、新穀既升、鑚燧改火、期可已矣、子曰、食夫稲、衣夫錦、於女安乎、曰、安、女安則為之、夫君子之居喪、食旨不甘、聞楽不楽、居処不安、故不為也、今女安則為之、宰我出、子曰、予之不仁也、子生三年、然後免於父母之懐、夫三年之喪、天下之通喪也、予也有三年之愛於其父母乎』
●読み下し文
『宰我問う、三年の喪は期にして已に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん。旧穀既に没きて新穀既に升り、燧を鑚りて火を改む。期にして已むべし。子曰く、かの稲を食らい、かの錦を衣る、汝において安きか。曰く、安し。汝安くんば則ちこれを為せ。それ君子の喪に居るや、旨きを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居処安からず、故に為さざるなり。今汝安ければ則ちこれを為せ。宰我出ず。子曰く、予の不仁なるや、子生まれて三年、然して後に父母の懐を免る。それ三年の喪は天下の通喪なり。予や、其の父母に三年の愛あらんか』。【陽貨篇17-21】
ここでも、現代文が必要のようです。要約してみましょう。
『宰我がたずねた。喪に服するのは三年とされていますが長すぎませんか。君子が三年間も礼の修行をしなかったら、礼は必ず無くなってしまいます。三年間も楽を稽古しなかったら、楽が崩れてしまいます。穀物も古いのは尽きて新しい穀物が実ります。四季によって火を熾す材料も改められます。孔子が言いました。貴方はそのような時に、平気で食事をし贅沢な物を着る事ができますか。すると、宰我は、平気です、と言いました。では貴方はそのようにしなさい。と孔子が言いい、つづけて、君子と言うものは、喪に服している時に美味しいものを食べても味気なく、音楽を聴いても楽しくなく、心は落ち着かないものである。だから、君子は三年の間喪に服す。貴方はそれでも出来るのであれば、そうすれば良い。宰我が孔子の前から居なくなってから、宰我は情が無いのか、子は生まれて三年は父母の愛情に包まれて育つ、だから父母が亡くなった時は、三年喪に服するのは天下の常識である。宰我は、父母の愛を受けずに育ったのだろうか。』
私は、気心の知れた人から、理屈っぽいと言われます。そんな私が聞いても、この二人の言葉は、理屈っぽく聞こえます。
宰我も、人にものを聞くのに、そこまで理屈をこねる必要はあるのでしょうか。時代背景が分からないので、一概には言えませんが、もし現在、このような聞き方をされれば、では、自分のしたいようにすればよい、と言ってしまうかも知れません。孔子がこう言った事は納得できます。
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答える時には、多少理屈っぽくなっても仕方ないでしょう。もちろん、理屈っぽくではなく、論理的に話を展開しなければ、説得力に欠けるでしょう。しかし、聞く側が相手を説得するような、理論展開をしてくれば、これに反論するか、好きなようにすれば良いと答えるのも、いたし方ないように思います。
ですから、宰我の話は、聞くのではなく、議論をしているつもりではないでしょうか。自分の考えがしっかりあって、それを相手に納得させようとしているのではないかと思います。
ここで、宰我と言う人の人格形成は、何となく理解出来ましたが、孔子と言う人物が、未だに分かりません。
弟子に対する、愚痴でしょうが、弟子に漏らしては、先生失格です。そういう意味では、『論語』は面白いと言えます。
まぁ、最後まで読んで見ましょう。また、孔子に対してのイメージも変わるかも知れません。
ただ、私は孔子や子貢、子路、顔回、そして今回登場の宰我に対する人物像には、あまり興味が湧かないのです。
孔子を聖人では無かったと言う人もいれば、『論語』を稚拙な文章の寄せ集めと、酷評しているものも見かけます。私は、文章をどうのこうのと、言うほどの文章力がある分けでもありませんし、孔子やその弟子が聖人であろうが、なかろうが、構わないのです。
2500年もの間、古代中国の為政者に読まれ、聖徳太子の十七条憲法にも影響を与え、近年まで歴史の主役を務めたような人達に読み継がれてきた『論語』の、そのようなエキスを知りたくて、読んでいます。
そんな『論語』の一言に、出会いたいものです。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.