文武両道のために・・・・『徒然草』を読んで見る。【233】

 今日の文字は『驕慢きょうまん』です。書体は草書です。今日読んで見ようと思う、『徒然草 第二百三十二段』を読んで見て、感じた文字です。

原文 現代文を見る 驕慢

 

☆『国民・玉木代表「すぐケンカする人たちと思われている」』
(朝日新聞デジタル 2019/03/14 00:37)

■国民民主党・玉木雄一郎代表(発言録)

 「(立憲民主党は)元々、同じ一緒にやっていた先輩方同士なので、(野党連携で)もう少し折り合いをつけられたらいいかと思う。今の野党がなぜ信頼されないか。なにをやるにしても、政策以前に、またバラバラになるんじゃないか、すぐケンカする人たちじゃないかと思われている。

 いろいろなことがあったけど、それを乗り越え、大きな大義のため、国民のため、再結集できるというストーリーをもう一度、国民に見ていただかない限り、我々がもう一度信頼できる集団にならないのではないか。(野党が)まとまって、自民党に代わる選択肢をつくりたい。(13日、BS11の番組で)」

 まず、この記事を読んで、「そこ?」と思いました。国会中継を見ていて感じる事ですが、野党が与党を越える事ができないのは、何もそんなところではないと思っています。

 言葉の揚げ足をとったり、質問内容にも問題があり、その質問に答えた内容にも耳を貸さないで、自分の用意した結論と違う部分だけ、執拗に追い詰めて、溜飲を下げているようにしか思えません。

 国会は政策を議論する所ではないのでしょうか。国の為になるような質問をし、代替案を示せば、例え、与党に応じる度量がなくても、国民はその言葉を聞いていると思うのですが。
 
 
 さぁ、今日も一日元気で過ごしましょう。

 
徒然草 第二百三十二段 〔原文〕

すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子ども、見ざまなどあしからぬが、父の前にて、人ともの言ふとて、史書のもんを引きたりし、さかしくは聞えしかども、尊者そんじゃの前にては、さらずともと覚えしなり。

又ある人のもとにて、琵琶法師の物語を聞かんとて、琵琶を召し寄せたるに、ぢゅうのひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ」と言ふに、ある男の、中にあしからずと見ゆるが、「古きひさくの柄ありや」などいふを見れば、爪をふしたり。琵琶などひくにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たるよしにやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄はひものとかやいひて、よからぬものに」とぞ、ある人仰せられし。

若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

 

『現代文』

『すべて人は、無智・無能であるべきものである。ある人で容姿が悪くない者が、父の前で、人と話すというので、歴史書の言葉を引用した事は、賢いと思われたが、目上の人の前で、そんな事はしない方が良いと思った。

 また、ある人のもとで、琵琶法師の物語を聞こうと、琵琶を召し寄せたが、琵琶のじゅうが一つ落ちたので「作ってつけなさい」と言えば、中に人品卑しからぬように見える人が「古いひしゃくの柄がありますか」と言うので見ると、爪を伸ばしている。琵琶を弾くのであろう。めくら法師の琵琶ごときに、そんな処置はいらない。その道に詳しいと言っているようで、みっともない。「ひしゃくの柄はひものとか云って、良い物ではない」と、ある人が言われた。

若い人は、少しの事でも、よく見たり、悪く見たりする。』

 

 

『驕慢』

 まず、驕慢きょうまんと言う言葉は、「[名・形動]おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること。また、そのさま。」(出典:デジタル大辞泉 小学館.)との記述がありました。

 古文がそうなのか、兼好法師の書き方がそうなのか、よく解りませんが、あまりにも、断定的な書き方が目立ちます。

 『すべて人は、無智無能なるべきものなり』と書かれてありますが、無智無能な人が歌人にはなれないと思うのですが。

 それはさておき、前段に書かれてある、尊者そんじゃの前にては、さらずともと覚えしなり。』と書かれていますが、別に目上の人、高貴な人の前だけではなく、知識をひけらかすのは、反って自分を貶める事になる場合が多いと思います。

 特に、四文字熟語などを言葉の端々に入れて話す場合は、気を付けた方が良いと思っています。

 私もこのブログでよく四文字熟語や故事、あるいは訓戒、ことわざなどを使っていますが、これは、自分の言いたい事を端的に表す事ができると思い使います。それでも、言い訳に聞こえてしまいますから、注意するべきだと思っています。

 ですから、これらの言葉を知っている事で、自分に下駄を履かせるような言動は慎むべきだと思います。

 私がこの文章で毛筆で書いた言葉「驕慢きょうまん」がこれに匹敵します。こんな言葉は、このブログを書くまで、知りませんでした。言い訳になりますが、今日の一文字として、漢字一文字を原則にして書いています。時には4文字になる事も3文字になる事もあります。今日は2文字です。

 なぜ、と、理由を書くと、如何にも言い訳になるのですが、今まで書いて来た言葉と被さらないようにしようと思っていますので、こんな文字になりました。

 話を次の琵琶のくだりにもどしましょう。私には読解できていません。

 まず、品性の悪くない人が、柄杓の柄で琵琶を直そうとした事が、そんなに悪い事なのでしょうか。確かに、『ひさくの柄はひものとかやいひて、よからぬものに』と、直そうとした材料が悪いかも知れませんが、それも、誰が言ったのか分かりません。

 そして、別にしゃしゃり出て言った言葉とも思えません。その品性の悪くない人が、琵琶を弾く事ができるから、その柄杓の事が頭に浮かんだのでしょう。琵琶を触った事も無い人に気付くことなど出来ないと思います。

 この言葉兼好法師が言ったのでしょうか。『めくら法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。』、この言葉の意味は、普通に読めば、「たかが、めくら法師の琵琶にそんな配慮はしなくて良い」とも読めます。

 確かに差別社会、封建社会の真っただ中ですから、そのような意識はあったのでしょう。しかし、『琵琶法師の物語を聞かんとて、琵琶を召し寄せた』と言うのが原因で、このめくら法師は、その場にいるのでしょう。

 であれば、尚の事修繕する手助けをしても良さそうなものだと思ってしまいます。

 そして、最後に『若い人は、少しの事でも、よく見たり、悪く見たりする。』と言う言葉で括っています。

 この言葉自体は、確かに経験も知識も少ないであろう、若い人は一喜一憂するとは思います。私など未だにそんな事もあります。

 しかし、前段にも中段にも、この事を言わなければならない事柄があったのでしょうか。

 それとも、徒然草の序文にある『心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば』と、心に浮かぶことを取りとめもなく書いたのでしょうか。