【縁】について

スポンサーリンク
  【因縁生起】と言う法則  

 先日、NHK の[こころの時代]を再放送で視聴しました。横山紘一氏(立教大学名誉教授)と大栗博司氏(カリフォルニア工科大学教授)との対談が実に面白かったので紹介しましょう。

 初めから最後まで、全く話が噛み合わない。こんなに平行線のまま会話を続けている二人に違和感を感じながらも、最後まで聞いていました。
 番組のタイトルは、シリーズ「唯識に生きる」第五回「唯識の科学性」です。ちなみに、唯識というのは、「唯(た)だ心だけが存在する」という仏教思想だと言います。
 
 横山紘一氏は、仏教学者ですが、得度して一如と法名を持つほどの仏教信者です。片や、ノーベル物理学賞の候補に上げられるような生粋の物理学者、肩書だけでも合いそうもない二人です。

 しばらく話は続きますが、内容はほとんど解りません。専門用語が難しすぎて。でも我慢しながら、他に面白い番組もやっていなかったので、視聴を続けました。

 唯識と科学の共通点と相違点を浮かび上がらせるのが、番組のテーマですから、横山氏は、幾度もテーマに沿うように、話の方向が交わるように話を向けます。私が聞いていてもそれは無理やりでしょう。と、言いたくなる程、一方的に感じました。当然相手も科学者ですし、安易に妥協するような人ではありません。大人の対応と言いますか、紳士的に話は進んで行くかに見えますが、内容は全く進んで行きません。

 話の内容から、大栗氏は、物理学者らしく、物の起こりではなく、物と物の関係を探るのに興味を持って研究しています。物の起こり、例えば宇宙で偶然にビッグバンが起こり、偶然に地球ができ、そして、偶然に人間が生まれた。と、なんの懐疑心もなく偶然という事を受け入れています。

 一方、横山氏は、その事の起こりに疑いを持ち偶然とは思いません。それが、「因」で、深層心に潜む業の種子であると説かれます。まず、ここで、「深層心に潜む業の種子」なる言葉自体が、如何にも抽象的で、素直に頭に入ってきません。
 たとえば、科学では、深層心という物には実態がなければなりません。水という物の結果を見る場合、水素と酸素があり、これが科学的に融合するという化学反応(関係)が水を生むという。証明可能な事柄があるということです。これは、自分自身が理解するための比喩ですが、譬えがあっているのかは、解りません。
 ここで、深層心水素と酸素種子潜む業化学反応であると置き換えてみました。
 大栗氏は、物と物との関係をこういう実験可能な状態で、初めて理解できるといいます。横山氏の、では、その物(例えば水素とします。番組では言っていません)の起こりを訪ねますが、大栗氏はその事に興味がなく、解りませんと素直に言われます。
 横山氏は、事の起こりを「因縁生起(縁起)」という法則でもって証明しようとしますが、大栗氏のいう証明とは違います。実態が無いからです。大栗氏は、なぜその法則を信じる事ができるのかを尋ねます。
 横山氏は、誇らしく(かどうかはわかりませんが)、釈迦が大悟を得たとされる菩提樹の下に行ったときの心境を語り、信じるという事で、その答えをします。
 事の起こりが解りません。と、言う、大栗氏と、大栗氏の言う、根拠もなく心情により、仏陀の教義を信じることができる横山氏との間に、接点が見える様子もありません。
 大栗氏は、科学は創発であり、それは脳が作り出すものであると科学者の間では自明の事だといいます。そして、その脳が心を作り出しているとします。しかし、横山氏は、心が脳を作り出しているといいます。如何にも仏教の仏教らしさと言えます。「唯(た)だ心だけが存在する」という「唯識」に則った考え方でしょう。

 また、科学者は物と物との関係で幸福が生まれる、普遍的な幸福はないといい、仏教は普遍的な幸福を求めることが仏教だといいます。

 ここで、横山氏は双方の平行線的な会話を、無理やり幸福論につなげ、結果
、人の為に生きる。これは、全機と呼ばれ、そのすべてが自然界にあると結論付けます。
 科学者は、己が持つ機能を発揮する事が、幸福であるということだと結論付けます。これに対し、横山氏は、全機と、無理やり繋げたように思ってしまいました。

 私がこの投稿の題名を【縁】としたかといいますと、噛み合わない二人の学者も、それぞれ、信念をもってその仕事をしている事に変わりはないと言う事が解ったという事です。
 私たちは、好むと好まざるに関わらず、誰かと寄り添い、何かと関係を持ちます。これを物理学者は、偶然と言い、仏教学者は、「因縁生起(縁起)」と言うのでしょう。 

 それでも、人が専門的に何かを実施する場合に、理論的に理解して始めることは、至って少ないと思っています。例えば登山家のことばに、「そこに山があるから・・・」は、誤訳とも意訳とも言われていますが、ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory)は、さしたる理由があったわけではなく、また差し迫った理由によって人は山に登る訳ではない。まさに、「山があるから登るんだ」ではないのかと思っています。

 科学者にしても、なぜ科学者になったのかを突き詰めていくと、そこに理解したい、という欲求に引き付けられた、としか言いようのない物にぶつかるのではないでしょうか。
 仏教者も理由は後付けで、なんとなく惹かれるものがあったから、信じたのではないでしょうか。仏教学者はともかく、宗教を信じる人も、なんとなく惹かれるものがあったからではないのでしょうか。
 武道家も音楽家も、仕事にしても、色々理由付けは出来るにしても、なぜ、と問われた時、惹かれるものがそこにあったからではないのかと思います。惹かれると言っても恋焦がれると言った意味ではなく。なんとなくです。

 これが、仏教家がいう、「縁」ではないでしょうか。 「縁は異なもの味なもの」と、言うじゃないですか。
 「偶然」でも「縁」でも、信じる事のできる人は、全知全能の「神」であり、「仏」でしょう。また、哲学として解明に努力する人がいる事も事実です。しかし、信じることができない人にとっては、解らないもので良いのではないでしょうか。

 この歳にになっても、世の中の事は、解らない事ばかりです。解らないのに、惹かれるものがあるって、それこそ、人間って不思議な能力を持っていると思えませんか。
 そんな惹かれる気持ちによって、人は、動かされたり、感じたりする事ができるのですから、大切にしたいと思います。
 また、仕事にしても趣味にしても、理屈ではなく、惹かれる物がある事は、幸せな事だと思います。
 何かに惹かれたら、「縁」と思い、離さないよう、自らの能力で引き寄せた幸せと思えないでしょうか。

【人物紹介】
横山紘一 1940年福岡県生まれ。1964年東京大学農学部水産学科卒業。1967年東京大学文学部印度哲学科卒業。1974年東京大学大学院印度哲学博士課程修了。その後、東京大学文学部助手、立教大学文学部教授を経て、現在は立教大学名誉教授。正眼短期大学副学長。1988年4月から3年間、および2000年3月から2年間、奈良での興福寺仏教文化講座で、また、1998年から1年間、東京での奈良興福寺文化講座でそれぞれ講師を担当。また、2001年4月から1年間、NHKテレビ「こころの時代」に講師として出演。1997年11月、興福寺で得度、法名は一如。興福寺建立1300年記念の事業の一つとして2010年10月に『唯識 仏教辞典』を上梓。趣味は武道で、鹿島神流師範。2005年から新宿喫茶店「らんぶる」で開催中の「哲学カフェ」を主宰。
出典 : 唯識塾 URL:http://www.kouitsu.org/
大栗博司 カリフォルニア工科大学理論物理学研究所所長、フレッド・カブリ冠教授.東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構主任研究員.アスペン物理学センター所長.専門は素粒子論.
出典 : 大栗博司のブログ http://planck.exblog.jp/

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です