作法と言うと、そのすべてが作法により成り立っていると思われる「茶道」を思い浮かぶてもらえれば、想像できると思います。
また、『礼儀』と言えば、小笠原流。私の年代でも知らない人はいない、と思われるくらい有名です。
私が子供の頃は、色々なしきたりや、四季折々の催しが行われていたように思います。
このしきたりや、礼儀作法は、時代と共に変化していくと思っています。子供の頃は、下駄ばきが普通でしたし、着物を着る事もよくありました。大人の女性も、着物姿をよく見ましたし、私の母も普通の生活で着物を着る事が多かったと思います。ですから、その頃の作法は、着物にあった作法であったと思います。
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よく、座礼というと、三つ指をついて。と言うような伝わり方が一般的でしたが、本家本元の小笠原流では、三つ指をついて礼をする作法はないようです。
「美しいふるまい」(出典:小笠原敬承斎[1999])『美しいふるまい』株式会社淡交社.)には、【むしろ三つ指をついてお辞儀をすることは姿勢を崩し、礼に欠けたものとなってしまう。】と記載されています。
伝承されている作法と言うのは、理に適ったものでないと、歴史に埋もれてしまうと思います。作法も時代にあった方法で変化していくのでしょう。
例えば、食事の仕方や、冠婚葬祭の服装、ビジネスマンのマナーなどは、私が生きた僅かの間でも、随分と変わって来ました。
作法やマナーと呼ばれるものは、社会生活を営む共同体、すなわち国や地域によって、共通の認識がなければ、如何にその方法が理に適っていても、合理的であっても機能する事はありません。
「ところ変われば品変わる」と言います。同じ国内で合っても、地域によってそれぞれ風習も違い、歴史も違います。まして、国外に目を向けますと、世界中で違ったマナーがあり、「郷に入っては郷に従え」と言うように、その社会の共通しているマナーを欠くと、『非礼』や場合によっては『無礼』になってしまいます。
『礼と節』を徹底解剖 Part-9 に書いた友達の言葉のように「知らない事は罪」が、法律違反にまでなってしまうかも知れません。
私たちが、日常当たり前のようにしている行動でも、人から見ると許容範囲を超えた、おかしな事にうつっているかも知れません。
ですから、私は、十七条憲法のような『礼節』の心に変わりはなく、その表現方法については、環境によって変化するものだと思っています。
ですから、いたずらに、作法通りでないと、「非礼」「無礼」と決めつける事も、『礼節』に適っていないと思っています。
まず、『礼節』に適った作法を身に付けている人は、他に対しては寛容で、心の広い事が求められます。これを教養というのかも知れません。もしくは、人格の備わったと言えるのかも知れません。
ですから、「作法」を頑なに人に押し付ける事も、『礼節』に適っているとは言えません。
だからといって、先述しましたように、「郷に入っては郷に従え」という言葉の通り、その作法が求められる環境においては、素直に作法が身につけて表現できる事も、人格の要素であるし、教養の一部と言えると考えています。
次回から、作法やしきたり、あるいはマナーなどの具体的な表現方法を考えて見たいと思います。
その為の目次を作りたいと思います。これも、自身の経験と見聞きした作法について、書いて行こうと思っていますので、目次通りに行かないかも知れません。「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」と書き始めた、吉田兼好の「徒然草」のように、思いつくまま、気の向くまま書き綴っていきたいと思います。
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礼の仕方 食事の仕方 座席の順序 ビジネスマナー 参列の仕方 しつけ 和室での礼儀 洋室での礼儀 同席の仕方 気配り 立てるという事 |