論語を読んで見よう
【為政篇2-2】
[第五講 詩と人生]

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 上の写真は、桃の木です。五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)の中で『詩経』に「桃夭」(とうよう)という詩があります。嫁ぐ娘を桃になぞらえて詠ったものです。 

 中国最古の詩集。五経の一。孔子の編と伝えるが未詳。西周から春秋時代に及ぶ歌謡三〇五編を、風(民謡)・雅(朝廷の音楽)・頌しよう(祖先の徳をたたえる詩)の三部門に分けて収録。風は一五に、雅は小雅・大雅の二つに、頌は周頌・魯頌・商頌の三つに分かれる。現存のものは漢代の人毛亨もうこうが伝えたとされ、「毛詩」ともいう。』(出典:大辞林 第三版 三省堂.)

 この「桃夭」は、内容から民謡ではないかと思われます。全文を載せて見ます。(この文には環境依存の文字があったので、HG正楷書体-PROを元に文字を自分で作成し画像にしたものです)

 縦書きですが、日本語と同じです。右から左に読みます。三部作と言うのでしょうか。三つに分かれています。
 初めの一行は皆同じです。桃が若々しい様子を歌っています。三行目も同じ文字が並んでいます、嫁に行く娘と言う意味です。
 四行目は室家も家室も同じ意味で家族や家庭の事ですが、最後の家人も言葉は変えていますが、その家庭のそれぞれの人を表しているものと思います。
 二行目は、それぞれ明るさ・たわわに実る果実・葉のふさふさと茂る様子を表し、若々しく明るい、嫁ぐ嫁が子宝に恵まれ、家庭が繁栄する事を示唆する歌になってます。

 私も、30年程前に及川 清三先生(民謡の先生)に1年ほど民謡の手ほどきを受けた事があります。これは、不動産の仕事の関係で上棟式(棟上げ式)に参列する機会が多かったものですから、お祝いの歌でも歌えればと思い練習しました。結構声も出るようになったのですが、今では元の木阿弥どころか、声も時々出ない事があります。お医者さんは歳のせいと言ってました。
 民謡は世界各地で見る事ができる、文化の代表と言えるでしょう。それぞれに表現方法は違うものの、その地域に密接に根付いた喜怒哀楽を表現した、人間本来の素直な気持ちが現れているものと思います。上の緑の玉に礼と言う字を表して見ましたが、この「礼」と同等の価値を、孔子は「詩」「楽」に見出していたのでしょう。

 今回の【為政篇2-2】は『現代人の論語』の題名は、[第五講 詩と人生]になっています。文化について説かれているのでしょうか。前回同様『論語』を見て見ましょう。
●白文
『子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪』。

●読み下し文
子曰(のたまわ)く、詩三百、一言(
いちごん)以てこれを蔽(おお)う曰(いわ)く、邪(よこしま)なし』。(為政篇2-2)

 非常に短い文章です。しかし、孔子の文化に対する思いの深さが分かる一文であると思います。

 詩に現れている言葉は、人間の本質であると孔子は言います。『邪なし』と。そこには真実があり嘘偽りのない心の叫びであると。『礼』と並び『詩』『楽』が孔子の教えの重要な要素である事の現れだと理解できます。
 
 現在では理解する事が難しい時代であると思います。それでも、日本でも貴族や為政者が好んで文化に造詣が深かった歴史を考えてみますと、『論語』が学問の主流であった時代が永かった事が理由なのかも知れません。

 今でも教養のある人にとっては、徳目(善行をする人格)の一つとして文化は自明なのかも知れません。しかし、世の中を見ますと、文化は金儲けの手段としか映っていないように思います。
 確かに文化の継承者たる人が、経済的に恵まれる事は、誠に喜ばしい限りです。しかし本当に文化の継承者かどうかも怪しく思う事もあります。

  『会章(シンボルマーク)』にも私の考えを述べましたが、「一燈照隅」が継承され広がれば文化と呼べるようになると思います。

 孔子が考えるように、またフロイトのアインシュタインへの返信で見られるように、文化が世の中の混乱、特に戦争を回避させる要因になれば良いのですが、私にはそう思える根拠が見つかりません。
 凄い事を言ってしまいました。世界の三大聖人や精神分析の創始者として名高いフロイトに異議を申し立てています。
 ただ、反論や異議ではなくそうであれば良いとは思っている事も事実です。

 私は、文化を継承する人達が全て平和主義かどうかに疑問を持っています。また、文化の継承の過程で、徳のある人物が生まれる事にも疑問を持ちます。

 これは、武道をすれば、「礼儀」を弁(わきま)える事に繋がらないのと同じ理屈です。スポーツをすれば、スポーツマンシップが身に付くとは限らないのと同じです。

 仮に、宗教も孔子の言う文化とするならば、宗教戦争は起こりようがありません。

 また、日本でも文化の継承者であるはずの、宗家争いはいつの時代でもありました。高い文化を継承した人であっても、権力をもった途端、あるいは財力を築いた時に、果たして、善行の人でいられるのでしょうか。

 私は孟子の言う「性善説」にも、荀子の言う「性悪説」にも同意しかねます。孔子が言う「子曰 性相近也 習相遠也」(陽貨篇17-2)、生まれながらに大差はない、学習によって違いができる。と言う言葉に頷けます。ここで言う学習と言うのは、学校教育でない事は言うまでもありません。

 孔子は、この「習相遠也」で「徳」までも得る事が出来ると考えたのだと思います。

 

 私は、習ったから成るものと、習う事がキッカケになって得られるものがあると考えています。また、習ったからと言って成らないものもあると思うのです。
 その理由は、同じ事を同じように習っても違ったものを習得するのが人間だと思うからです。
 
 私も色々な人に空手道を教えてきました。しかし、それぞれが違うものを習得していきます。私の先生(故佐々木武先生)も、「三好の空手はそれで良い、〇〇の空手はそれで良い、空手は個人のものだ」と言われた事があります。40年も前の事になります。人それぞれに受け取り方が違います。

 如何に「瀉瓶」のように素直になったとしても、受け皿は違うものです。
 であれば、文化と言う表現は、それぞれの個性の上に成り立ちますから、人間の持つであろう、残虐性や悪と呼ばれる性質にまで影響を及ぼすのでしょうか。私の経験からは想像しようにもその材料がありません。

 私は「文化」と「徳」には因果関係が成立しないと思っています。文化継承者であるから、徳のある人と言う論法には、繋ぐべき理論が見当たりません。もし、そういう理論があれば2500年もの間、人類は戦乱の世の中を繰り返さなかったのではないでしょうか。これは、小さい地域だけの事ではありません。世界をみても何とおろかな歴史を繰り返しているではありませんか。現に今でも戦争をしている国もあるのです。
 戦争のような大きな事だけではありません。毎日のようにニュースになる犯罪を見ても、人間の愚かさに終止符を打つ事ができない歴史を刻んでいます。

 まだ、『論語』の緒についたばかりです。結論を述べるには早計です。もう一度瀉瓶の気持ちになって、予断を挟まず読んでいきましょう。

 もう一つだけ生意気な事を言ってしまいます。この『論語』は、孔子の弟子の聞き伝えである事にも問題があると思っています。どれだけ優れた弟子であっても、先生の言った事を、その真意までうつしとることができたのでしょうか。
 伝言ゲームでは、初めに言った事と、全く違ったことが最後の人に伝わる事は、みんなが納得できるものです。そんな疑問を残したまま、次回以降に答えを見つけていきたいと思います。 


【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.

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