ここまでの『論語』を読んで、どうも机上論に過ぎないように思っていました。これから先を読んで、また同じような気持ちを抱くのかも知れません。
孔子は、どう思っていたのでしょう。やはり現実的ではない事も分かってたのでしょう。いや、現実的にするための難しさを、知っていたと言った方が、的を得ているのかも知れません。
思想にしても、科学的な理論にしても、仮説は立てやすいものです。そして、もう少しで完成と言う所までは、近づけるのかも知れません。しかし、山登りと同じで、頂上を制覇するのは、一握りの人達です。
空手道でも同じ事が言えます。私が携わってきた空手の世界でも、強い人は限りなくいます。この体で体験してきました。しかし、それは空手術にも達していないと思っています。まして、その空手術から道への過程に進む人はほんの一握りと思っています。
理由はいたって簡単です。望まないからだと思います。望まないというよりも、掻き立てられないからでしょう。 因縁生起にも書きましたが、「山があるから登るんだ」と言う、沸き起こるような気持ちが「縁」と言う言葉で語られています。
人と言うのはある意味、殆どの人が、この原因が定かでない心の起こりで、物事を始めます。空手を始める場合も、色々理由はありますが、強くなるためだけならもっと色々選択肢はあったと思います。例えば数学者が数学に魅せられるのも、芸術家が彫刻や絵画、あるいは音楽の世界に入るには、理屈を超えて誘導される「何か」に惹かれたのだと思っています。
孔子も釈迦も、そんな「何か」に惹かれて、その道を歩み続けたのではないでしょうか。ですから、現実は難しいのです。「何か」に惹かれる必要があり、その「何か」は、「縁」と言うのは簡単ですが、その人の持ち合わせた「運命」かも知れません。
であれば、孔子も釈迦も無駄な思想を披歴して、一つの時代を生きたのでしょうか。私はそうとも思えません。その影響を受けて、歴史の中で聖人と呼ぶにふさわしい人達が創出されてきたではありませんか。
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それでは、『論語』を読んで見ましょう。
●白文
『子曰、可与共学、未可与適道、可与適道、未可与立、可与立、未可与権』。
●読み下し文
『子曰(のたまわ)く、与(とも)に共に学ぶべきも、未(いま)だ与に道に適く(ゆく)べからず。与に道に適くべきも、未だ与に立つべからず。与に立つべきも、未だ与に権(はか)るべからず』。(子罕篇9-31)
この文章は子罕篇9-32を続けて一つの文章にした『論語』もありますが、ここは、『現代人の論語』を参考にしていますので、分けて考えて見る事にします。
まず、内容を見て見ましょう。
『同窓の学生でも、同じ仕事をするとは限らない。例え同じ道を選んだとしても、同様の地位になれるとは言えない。同じ地位になったとしても、同じ目的や利益に向かう事はない』。
今、現代の学生に置き換えて見ましたが、『孔子の教えを受けた人であっても、同じように詩・礼・楽を学んでも、孔子のように徳のある人になるとは限らない』と言っているように思えます。
為政篇2-2にも書きましたが、学ぶためには、器が必要です。それぞれに個性がある器ですから、同じものを入れても趣が違います。
同じ食べ物でも、料亭で手厚いもてなしを受けて、立派な器に盛られた物と、炊事場でコンビニで買ってきたプラスチックの容器のまま食べるのとでは、随分違うものになってしまいます。人間は器や雰囲気で実際に味覚が変わると、最近のテレビ番組で見た記憶があります。確かに、私もコーヒーカップによってコーヒーの味が変わると思っている方です。雰囲気かもしれませんが。
話が横道にそれてしまいましたが、食べ物以上に人間の器、すなわち個性と言われるものによって、習得するものが違ったものになります。これは、為政篇2-2でも同じ事を書きましたが、同じ人でもその習得する時期であるとか、環境によって得られるものが違います。
自分自身を考えても、同じ言葉を聞いても、聞ける人と、聞く事ができない人がいます。好き嫌いというものです。また、同じ事を同じ人から聞いても、腑に落ちる時と、理解できない時があるものです。
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よく、本は何度も読むと、その年代、その経験や知識によって受ける感動が変わるものだと言われます。私は本当に読書する事はありませんでしたが、それでも、空手に関する本は、好き好んで読んでいました。いや、眺めていたと言った方が正確です。昔の本などは言葉が難しく、一度や二度読んでも頭に入りません。何度か目を通している内に、違った事に気付く事もあります。
個人的に見ても流動的な器ですから、世の中の人を考えれば、当然成長もしていますし、固定してはいないと思います。
私は、進路を決めるのは、理論でも知識でもないと思っています。運命論を信じる分けでは無いのですが、惹かれる物があるからだと思っています。これを「神」や「仏」のお導きと言う人もいるかも知れませんが、私はこれが個性では無いかと思っています。
今よく言われている、「あるがまま」の個性ではありません。どれだけの試練を受けても消える事のない自分を感じる事ができます。、私は、これが『個性』だと思います。
この個性は、固定して動かないものとは思っていません。磨けば磨くほど光り輝く個性だと思います。
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.