この文章も、私が考える『論語』のイメージから考えると、直接的には関係は薄いと考えてます。このような『論語』の一節を取り上げているのは、参考文献にしている『現代人の論語』の特徴だとも思えます。
『現代人の論語』の「はじめに」で、「現代人にとっての面白さを最優先にし」と言う記述がみられるますが、呉智英氏(『現代人の論語』作者)の考える、面白さを優先した結果だと思います。読書が好きな人には面白いのかも知れませんが、私には、興味を惹かれる所を優先させているとは、思えません。
それでも、折角このブログを通じて、読破しようと決心して、途中で投げ出す事もできませんので、最期まで読んでいく事にします。
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今日の『論語』はどのような内容でしょう。
●白文
『子畏於匡、曰、文王既没、文不在茲乎、天之将喪斯文也、後死者不得与於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何』。
●読み下し文
『子、匡に畏る。曰く、文王既に没したれども、文はここに在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与ることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人、其れ、予を如何』。【子罕篇9-5】
現代文にすると『孔子が匡の国で襲われる。孔子は、文王は既に亡くなっているが、文はここに在るではないか。天がこの文を滅ぼそうする分けがない。若い人はこの文を学ぶ事はできない。天がこの文を滅ぼす筈はない。匡人などが私に何をしようと言うのか。』と言う内容ですが、匡の国で襲われたあとで、弟子に言った言葉でしょう。
文王と言うのは、孔子が尊敬した周の始祖で徳があり、成熟した政治をした君主で、孔子はこの文王の考え方を受け継いでいると、この文章は語っています。『文不在茲乎』「文は孔子に宿っている」と言っていますが、自分の尊敬している人に、すでに達していると、普通は言えないですね。そして、その上、述而篇7-20『子不語怪力乱神』にあるように、不思議な事は語らなかったとありますので、客観的で現実的な一面がクローズアップされています。その人が、「天」が自分を守ってくれる。しかも、自分が死んでしまったら、後世に、「文」の徳を伝える者がいなくなってしまう。と、そんなにも自分を高く評価できるものでしょうか。
雍也篇6-28で南子と言う妖艶な人に会った時も『天厭之、天厭之』もし自分が間違った事をしているなら、天が罰を与えると、これは単なる比喩かも知れませんが、「天」と言う言葉を使っています。
「天」と言うと老子の「天網恢恢疎にして漏らさず」や、「天は我々を見放した」でお馴染みの八甲田雪中行軍遭難事件、高倉健主演の映画を思い起こさせます。この「天」は、「神」と同じ意味では無いのでしょうか。
この事を捉えて、孔子は実はオカルト的な事にも理解があったとするのは、早計だと思います。
この事も時代の背景が関わっています。現代でもつい最近までごくごく当たり前で合った事が、科学により証明されたり、逆に科学で真実と言われていた事が覆されたりします。
科学の事は良く分かりませんが、運動の方法でも一番卑近な例が、うさぎ跳びです。私が高校生の時ですが、バスケットクラブにしばらくいました。当然の事のようにうさぎ跳びが日課です。
特に雨の日は、憂鬱でした。校舎の廊下の長さが100mありました。3階建ての校舎ですが地下がありましたので、4階です。廊下を100mをダッシュします。そして階段をうさぎ跳びで4階まで上がります。一つの部屋の中で、腹筋100回、腕立て伏せ100回、終わると、廊下をダッシュ、そして今度は階段をうさぎ跳びで降ります。また100mのダッシュです。そしてまた4階まで階段をうさぎ跳びで上がります。これを10回繰り返します。
当時は、いわゆるボットン便所、和式のトイレですから、足がパンパンでしゃがむことが出来ません。一回座るとお尻まで便器に入ってしまって、立ち上がれませんでした。
それから10年もしない間に、うさぎ跳びが禁止になってしまいました。当たり前が、当たり前では無くなった経験です。
こればかりではありません。柔軟体操の仕方でも、今はストレッチなどが有名ですが、中学校の時には器械体操クラブを作りましたので、柔軟体操は日ごろの準備体操です。相撲でよく言われる股裂きをやります。両足を押さえられ、前から手を引っ張られ、後ろから人が背中に乗って、無理やり180度開脚できるようにしました。いつも、かってに目から涙がこぼれていました。これも前近代的なのでしょう。
ただ、こういう練習をしても良い年齢があるのかも知れません。現に効果的な練習だったと思っています。人によって個人差はつきものですから、その一人一人に合った練習には適さないかも知れません。
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歴史においても、私などが習った歴史と、色々な点で変わっています。何が正しいのか本当に首をひねってしまいます。
この事と「天」と、どういう関係があるのか、疑問に思われるかも知れません。その時代では「天」は、自明だったのだと思います。今でも、占いや神のお告げによって、政治や経済の進路を、見極めている人達もいるではありませんか。
孔子の時代に、孔子が「天」を信じていても不思議ではありません。
現在でも、数学者や科学者が、最終的にはオカルトテックな事に心を奪われてしまう事も、現実にあるのですから。
まだまだ、人間にとって不思議な事は、山積みです。
孔子の時代から2500年も経っていますが、もしかしたら、人間の歴史からすれば、2500年しか経っていないと、言えるのかも知れません。
それにしても、人格が高いとの評価がある「孔子」が、少なくともこの文章では、自分を高く評価する言葉によって、私などから見ると逆効果、人格を落としているように思います。
よほど、襲われた時に、怖い思いをしたのかも知れません。考えすぎでしょうか。
【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.