論語を読んで見よう
【子張篇19-25】
[第二十七講 子貢-師の最良の理解者]

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 賛辞、というのは本当に難しいものです。ですから、私は結婚式の披露宴での祝辞などは、苦手です。
 
 人の前で話をする事に対しては、上手ではありませんが、慣れていればそれなりに出来るようになります。それでも、人から見ると平気なように映るのでしょうが、内心はいつも上がっています。

 記憶にあるのは、小学生の五年生の時に、在校生代表で送辞を読んだ時です。写真は、その時の様子です。写真では分かりませんが、心臓が口から飛び出る思いをしました。

 それから自分の思いとは裏腹に、人の前で話をする機会が随分ありました。
 中学校の時など、直ぐに顔が真っ赤になるので、タコと言われた事もありました。直接言った人はいませんが、陰ではそんなあだ名が付いていたようです。
 顔にでたり、ドキドキするのですから、だまっていれば良いのに、直ぐに出しゃばってしまいます。
 古希を過ぎても、進んではやりたくないのですが、会議などでは、どうしても手が先に上がってしまいます。悪い性分です。

 初めに、賛辞、披露宴と書きましたが、人を褒める事は、人の前で話をする事以上に、本当に難しいと思っています。

 もちろん、歯の浮くような嘘を付くわけではありませんが、本当の事であっても、躊躇してしまいます。

 私の生い立ちにも影響があると思いますが、前にもこのブログで書きましたが、母親に褒められた記憶がないのです。ですから、人から褒められると、素直に喜べない性格になってしまったようです。穿うがった聞き方をする分けでは、ないのですが、褒められると気持ちよくはありません。もちろんけなされるのが好きな訳でもないのですが、どちらかと言うと、貶される方が納得できます。

 今回の話は、子貢が孔子を賛美する模様です。
●白文

『陳子禽謂子貢曰、子為恭也、仲尼豈賢於子乎、子貢曰、君子一言以為知、一言以為不知、言不可不慎也、夫子之不可及也、猶天之不可階而升也、夫子得邦家者、所謂立之斯立、導之斯行、綏之斯来、動之斯和、其生也栄、其死也哀、如之何其可及也』。
●読み下し文
陳子禽ちんしきん子貢しこういてわく、きょうを為すなり。仲尼ちゅうじあに子よりまさらんや。子貢曰わく、君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子ふうしの及ぶべからざるや、なお天のかいしてのぼるべからざるがごときなり。夫子にして邦家ほうかるならば、所謂いわゆるこれを立つればここに立ち、これを道びけばここにしたがい、これをやすんずればここに来たり、これを動かせばここに和す、その生くるや栄え、その死するや哀しむ。これを如何いかんぞそれ及ぶべけんや』。【子張篇19-25】

 では、いつものように現代文に意訳をしてみましょう。
 『陳子禽が子貢に、「あなたは、へりくだっています。孔子がどうして、あなたより賢いと言えるのですか?」と問いました。子貢は、「君子は一言えば、賢いとか愚かと言われる事を知っています。言葉は慎重でなければなりません。先生に及ばない事は、天にはしごをかけて登ろうとするのと同じです。先生がもし国家を治めたら、先生が立てと言えば立ち、導けば歩き、安らげれば集まり、励ませば応えるでしょう。先生が生きておられれば国家が栄え、先生が亡くなられれば国中が悲しみます。どうしてこんな先生に誰が及ぶことができると言えますか?」』そういうやり取りが、陳子禽と子貢の間にあったという文章です。

 これは、孔子の弟子である子貢と、その弟弟子陳子禽との会話です。『君子一言以為知、一言以為不知、言不可不慎也』をどのように訳すかによって、全く違った文章になってしまいます。漢文の難しい所です。

 ここでは、状況を考えると、陳子禽が言った事に対する、子貢の返答ですが、陳子禽と子貢の間には10年程の年齢差があるようです。兄弟子が弟弟子の言った事に、諭すように教えた場面だと思うと、この文章もすんなり読むことができるでしょう。

 そこで、子貢が返した言葉の前半、『君子一言以為知、一言以為不知、言不可不慎也』を、もう一度意訳して見る事にします。
 『貴方は、君子になる勉強をするために、先生の弟子になっている事を忘れてはいけません。君子というものは、軽々しくものを言う事は控えなければなりません。なぜなら、一言で良くも悪くも評価されてしまうからです。』
 と言う、説諭せつゆとまでは行かないまでも、言葉に注意するよう促したのでしょう。
 こういう言葉が無ければ、弟子が例えへりくだろうが、先生と比較するなど、もっての外と、私は思っています。

 それでも、ちょっと現実離れした評価だと思います。孔子は、こういう賛美に対して、嫌悪感を持つのではないでしょうか。少なくとも、私なら、「喝!」です。

 【述而篇7-18】では、子路に、その人となりや、いきどおりを発してしょくを忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、いのまさに至らんとするを知らざるのみと』。そんな単純なおじいさんですよ、っと言えば良かったのに。と言っています。

 先生と言うのは、身内の立場です。人に非難されれば、反論しますが、ほめ過ぎるのも、どうかと思います。
 
 初めに賛美や相手を褒める事を難しい、と書きましたが、どんな言葉でも浮いてしまうと、相手の心に届かなくなります。
 であれば、なおさら先生をここまで賛美する必要はありません。

 特に陳子禽が子貢に言った言葉が、単なるお世辞でなければ、尚更の事です。子貢の才能を高く評価しての言葉です。そんな場合は孔子をいくら賛美する言葉を並べても、逆効果だと思います。

 陳子禽も孔子の下で学んでいるのですから。私なら、「失礼な奴」と一喝ですね。弟子と先生を比べる事自体が間違っているのですから。
 
 私の先生も、父も母もすでに、他界しています。私が生きている内に、超える事など、頭の片隅にもありません。師弟や親子と言うのは、そんな関係ではないのでしょうか。

 子貢は、頭は切れるが、まだまだ孔子が説く『徳』が身に付いているとは、思えませんでした。

 これは、子貢を評価するには、ほんの一部に過ぎません。孔門十哲 に数えられた一人ですから、一面から判断する事は、間違いです。人は色々な側面を持っていて、それが融合したのが人ですから、以降の『論語』に、なるほど、これなら孔門十哲 に数えられても、不思議ではない事が出てくるのでしょう。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.

 

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