今回の文章には、『過猶不及也』「過ぎたるは猶及ばざるが如し」が出てきます。
このブログでも、『 空手道という武道』、『「五輪書」から学ぶ』、『独行道を読む』、『「礼と節」を表現してみよう』に度々使った言葉です。
また、『論語』の中でも【子罕篇9-18】、【子罕篇9-32】には、意味合いとしては同様の言葉を見つける事ができます。
この言葉は、私も大変好きですし、人生の様々な場面で、心に浮かべて、道を切り開いてくれます。これでこそ『論語』の『論語』たる意味があるのでは、ないでしょうか。
しかし、『現代人の論語』では、この言葉にも人間臭いドラマがある との記述があります。
|
さて、どのようなドラマがあるのでしょうか。
●白文
『子貢問 師与商也孰賢乎 子曰 師也過 商也不及曰 然則師愈与 子曰 過猶不及也』。
●読み下し文
『子貢問う、師と商と孰れか賢れる。子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。曰く、然らば則ち師は愈れるか。子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし』。【先進篇11-16】
初めに、ここに出てくる文字を調べて見ましょう。
【師】は、名が師、姓は〔せん〕孫、字が子張です。【商】は、名が商、姓は卜、字が子夏です。
ここでも、環境依存文字がありましたので、イメージ化します。
では、現代文にして見ましょう。
『子貢が尋ねました。師と商のどちらが優れていますか。孔子は、師はやり過ぎる、商は足りない。子貢は、であれば、師の方が優れているのでしょうかと言うと、孔子は、過ぎたるは猶及ばざるがごとし、と言われた』。
変な例えですが、高速道路の制限速度が、80km/h とします。ここで100km/hの速度を出すと、20km/hの超過です。当然速度違反ですから、捕まる事になります。私も何度も過去には捕まった事があります。
しかし、この高速道路を50km/hで走っていても、制限速度以内ですから、法律的には問題ありません。
ですが、高速道路ですから、適正な巡航速度があります。50km/hでは他の車の流れを止めてしまうかもしれません。いわゆる迷惑な車になってしまう事もあります。ひいては、事故を引き起こすもとになってしまうかも知れません。
違う例をあげましょう。非常に良いアイデアが浮かびました。早速製品を作って売り出します。しばらくしても、まったく売れる様子がありません。その会社は倒産してしまいました。
しかし、10年後同じ製品を作った会社がありました。5年もしない間に、その会社は上場する事になりました。
まぁ、そんなに簡単には行かないかも知れませんが、TPO〔Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)〕と呼ばれるように、物事には状況に合わせる事が大切だと思います。
前の例も、高速道路でなく、レース場であれば、100km/hで走行していれば、馬鹿にされる事でしょう。
過ぎると言う意味は、私があげた例の意味でありません。過ぎると言うのはあくまでも「やり過ぎる」事ですから、次のような例ではどうでしょう。
空手の試合が近づいています。優勝しようと、毎日稽古します。朝4時から起きて4時間。朝食が終わったら、昼までウエートトレーニング3時間。昼食が終わったら、2時間ランニング。2時間、組手を練習。夕食後2時間基本練習。続いて3時間組手練習。計16時間の稽古。これを3ヵ月続けます。
いや、多分続けられないでしょう。
私も学生時代は、朝4時に起きて、3時間、学校に行って昼休みに1時間。夜は道場に行って、4時間。一日8時間の練習をしていた頃があります。この程度では身体は壊れません。アスリートと呼ばれている人は、大概この程度の練習はしているものと思います。
しかし、16時間も一日に練習すると、如何に若い時でも、身体が回復しません。こういうのは、過ぎたるは猶及ばざるが如しです。
何もアスリートだけには限りません。近頃テレビでは、健康志向の情報が散乱しています。ちょっと体に良いと番組で言えば、次の日のスーパーでは品切れになります。このちょっと体に良い物を食べるのは、実際に体に良いのでしょう。しかし、これも食べ過ぎると良くありません。また、この食べ物だけを食べる事も、身体に変調を来します。何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しです。
もちろん、アスリートではなく、健康維持のための運動でも、バランスよく全身を動かさないと、変調を来します。よく、腰痛予防に効くとか、寝たきりにならないための運動が紹介されますが、これも、薬では無いですが、用法用量を守らないと、偏った運動になり、身体の為には良くありません。出来れば、全身をくまなく、少しづつ、毎日動かす方が、身体の為には良いと思います。ここでも、過ぎたるは猶及ばざるが如しの言葉が生きてきます。
用法用量と言えば、薬など、飲み過ぎると命にかかわります。学生の頃アルバイトで製薬会社の研究室に少し居た事があります。効く薬には、劇薬に相当する物が入っています。用量が正しければ良いのですが、間違うと大変な事になります。市販されている薬の場合は、人によって効き方が違いますので、最低の量しか混入されていません。ですから、効く人と効かない人が出てきます。しかし、これも過ぎたるは猶及ばざるが如しで、及ばない場合は効かないだけですが、過ぎた場合は、命にかかわります。
「礼と節」と言う事をこのブログでも取り上げました。言葉の通り節度を越えると、折角「礼」を表現しても、「礼を欠く」事にもなってしまいます。
ある料亭で、偉い人と食事をして帰り際に、靴を揃えるまでは良かったのですが、その靴を履かそうとしてしまった事がありました。もちろん、すぐにやり過ぎ、と気が付きやめましたが、相手に気付かれてしまいました。過ぎたるは猶及ばざるが如しで大失敗をした例です。
仕事の場合などは、いわゆる蛇足です。過ぎたるは猶及ばざるが如しは、折角用意した資料や情報、あるいは計画が、ふいになってしまいます。このあたりのさじ加減は、経験でしか得る事が出来ません。
足りない場合は、無かったことになりますが、過ぎた場合は、明らかな失敗になります。
常にバランスを取り、どちらかに傾かないように気を配る必要がありそうです。いつまでたっても、難しい事です。
孔子は、師(子張)も商(子夏)がどちらかが優っている分けでは無く、同等であると言っています。
どちらも、適当ではないからです。孔子の目から見て、やり過ぎは、例をあげたように、物事を壊してしまう恐れがありますから、当然いけないでしょう。足りないのも、用を足さない事になりますから、いけません。
ただし、私は、足りない事には、許容範囲があると思います。過ぎた場合は、一点を通過すると、全てダメになります。しかし、足りない場合には、許容範囲の中にあれば、ものの役に立ちます。
私は、足りない方に軍配を上げたいと思っています。ただこれも、配慮の結果足りない方が、最善の努力をして足りないよりも優位だとは思います。
また、足りて良い場合もありますし、足りない方が奥ゆかしい場合もありますので、その場面場面で、『礼』を尽くすべきだと思っています。ここでもやはり、TPOを考えないといけません。状況把握、人の気持ちになって考えられない人は、人格があると言えません。
さて、初めに人間臭いドラマがある と『現代人の論語』に記述があると書きましたが、どのようなドラマなのか、見て見ましょう。
子張と子夏は、孔子の後期の弟子たちです。この頃には、孔子の名声に集まって来る弟子が多くいました。『現代人の論語』を引用しますと、「現代で言えば名門大学へ入った秀才のような人たち」とあります。
ここで、『現代人の論語』では子張についてスポットを当てています。
まず、為政篇2-18『子張學干祿 子曰 多聞闕疑 愼言其餘 則寡尤 多見闕殆 愼行其餘 則寡悔 言寡尤 行寡悔 祿在其中矣』とあり、内容は、「子張は現在で言えば給料を多く得る方法を孔子に聞いたのです。その時、多く見聞して、その中から真実を見極め用心深く行動すれば、結果として給料はついてくるものです」と、孔子が答えています。その他にも子張についての記述が『論語』にありますが、子張は、孔子が考える『偉さ』と違う『偉さ』を求めている事が分かります。
子張については、同僚からもあまり良い評価が無かったことも書かれてあります。
子張篇19-1に『子張曰 士見危致命 見得思義 祭思敬 喪思哀 其可已矣』には、『現代人の論語』を引用しますと、「士たる者は、社会の危機には命をなげうち、利を前にしては正義に思いを致し、祖霊を祀る時には敬虔を念頭に置き、葬儀には悲しみを大切に考える、これができればまずまずだろう」〔この中でなげうちと言う言葉は、漢字で書かれてありました〕
この文章が「いささか色褪せて見える」との記述がありました。
これが、子張の小賢しい言葉として受け取ってよいのか、それとも、孔子による教えが行き届いたのか、私には分かりません。
このような子張の事を、子貢が、『然則師愈与』「それでは師(子張)の方が優れていますか」と聞いた事への、子貢に対しても、「何を見ている、違うだろう」と、釘を刺した言葉だったのかも知れません。
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.