論語を読んで見よう
【陽貨篇17-4】
[第三十八講 子游-笑いを呼ぶ謹厳さ]

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 日本人は、ユーモアのセンスがあまりないと思う事があります。勤勉すぎるのでしょうか。

 冗談も人により、場合によらなければ、相手を愚弄したり、揶揄する言葉にしかなりません。しかも、相手とその冗談を共有していないと、とんでもない争いになる事もあります。「口は禍の元」と言われる事は、肝に銘じておかなければなりません。

 できれば、機知にとんだ会話が出来れば良いですね。これは、何も相手を笑わしたり、わいわい騒ぐためのものではなく、その場を和ませる効果がある会話は、相当頭が良くないと出来ません。これは知識や学力とは、まったく関係がありません。それでも、賢い人でないと出来ない事です。そして、なにより、相手を思いやる心がなければなりません。

 このようなウイットに富んだ言葉を発する事ができるのは、語彙の多さは、もちろんの事、状況の把握と、社会情勢が分かり、そこにいる人のグレードに合わせなければ、ユーモアにもなりません。いわゆる滑った会話になってしまいます。ブラックユーモアも時と場合によりますので、なお、注意する必要があります。相手を笑わせれば良いのは、不特定多数の人に対して通じる事で、特定の人を和ませるのが、ウイットに富んだ会話と言えるでしょう。

 大阪の名物は、食べ物とお笑い。と言うぐらいで、街角でマイクを向けられると、途端に芸人になるようです。それは、商人の町特有の相互関係なのかも知れません。漫才で言う、ボケとツッコミの関係が、一般の人でも根付いているのでしょう。
 大阪では、「いらう」と言います。触る事も「いらう」と言いますが、その意味では無く、「からかう」意味や「ツッコミ」の意味で人を「いじる」事があります。それは、「いじられる」事を人気者であるとか、「いじられる」事を不愉快に思わない人と、お互い暗黙の関係が、成り立っているのだと思います。
 「いじられ」上手、「いじり」上手でなければなりません。「いじられてなんぼ」の境地にならないといけません。

 しかし、これも、度を越えると、「いじめ」に繋がるのでしょう。難しい時代になったと思います。確かに、「いじられる」事をいやいや認めざるを得ない場合もありますので、これが「いじめ」に転ずる場合もあるでしょう。気をつけたいものです。今盛んに言われている、ハラスメントにあたります。

 学校の先生が、特定の人をいじって、クラスの和を作ろうとしますが、これが、先生の勝手な思い込みの場合は、いじられた方は「いじめ」られているとしか、取れません。ですから、何かが起こって外部調査の手が入っても、「いじめ」は無かったとか、「いじめ」だとは、思わなかった。と言う回答になってしまいます。

 教育の場、仕事の場、もちろん道場であっても、先生と生徒の間には、人間関係があります。とにかく人間関係で、もっとも重要なのは、相互に理解しあった上で成り立つという事を、忘れてはなりません。

 人を「いらって」言う冗談は、両刃の剣だと思って、使い方を誤らない事が大事です、先生と生徒の間では、受ければ良いのではありません。中に傷ついて立ち直る事が出来ない人もいるのですから。

 今回は孔子が冗談を言ったくだりです。『論語』を読んで見たいと思います。
●白文
『子之武城 聞絃歌之声 夫子莞爾而笑曰 割鷄焉用牛刀 子游対曰 昔者偃也 聞諸夫子 曰 君子学則愛人 小人学道則易使也 子曰 二三子 偃之言是也 前言戯之耳』。
●読み下し文
『子、武城に之きて絃歌の声を聞く。夫子莞爾として笑いて曰く、鷄を割くに焉んぞ牛刀を用いん。子游対えて曰く、昔者偃や諸を夫子に聞けり、曰く、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易しと。子曰く、二三子よ、偃の言是なり。前言はこれに戯れしのみ』。【陽貨篇17-4】
 
 現代文にして見ます。
 「孔子が武城ぶじょうに来た時、弦歌の声を聞いた。孔子は微笑んで、鶏を捌くのに、牛刀を使っている、と笑いながら言った。ゆうがそれに答えて、昔、先生が、君子の道を学ぶとよく人を愛し、民衆が道を学ぶと従順になる、と聞きました。孔子は、他の門人に、えんの言う事が正しい。前言は冗談です。」
 このような内容ですが、ここで、武城ぶじょうは、魯の国の地名で、ゆうが代官を務めています。『割鷄焉用牛刀』と言うのは、犬小屋を作るのに一級建築士に頼むようなものでしょうか。ようするに大げさな事と、言ったのです。

 弦歌ですから、弦楽器を弾きながらうたう歌の事です。それをなぜ、大げさと言ったのか、なぜ、冗談なのか。

 『割鷄焉用牛刀』と言う言葉は、現在でも使われているそうですが、そこまで知識はありません。「薪を政宗で割る」ような言葉は、聞いたことがありますが、弦歌との因果関係がピンと来ません。

 そこで、『現代人の論語』を調べて見ますと、孔子は、この「小さな田舎町で文化とは!」との記述がありました。

 孔子は、冗談だと訂正しましたが、『文化』すなわち孔子の言う『礼楽』というものは、大は小を兼ねるようなものなのでしょうか。『礼楽』にそのような差があってはならないと、思っています。
 もちろん、TPOは、必要です。その町、その国の事情、大きさによって変化はあるかも知れませんが、『割鷄焉用牛刀』と言うのは、孔子と言えども、一生懸命街づくりをしている弟子に、言う言葉ではありません。
 それこそ、パワーハラスメントです。訂正すれば、済むものではありません。これを弟子が言ったとしたら、叱責していたに、違いないと思います。

 孔子は『論語』の中でも、失言が目に付きます。その度に、取り繕うような詭弁を弄します。この事も、教えになるのでしょうか。聞く人、読む人に委ねているのでしょうか。

 私も、今の言に対して、取り繕い、詭弁を弄したいと思います。あくまで、孔子が実際に言った言葉を編集したと、誰も証明できない。誰もその時代に行って見てくることもできない。弟子のそのまた弟子が、寄せ集めて記録したものに過ぎないのが『論語』。真実であるかどうかより、その文章、例えば、『割鷄焉用牛刀』のような言葉を、知識として持って、色々な場面で参考に出来れば、『論語』としての役割を十分果たすのではないかと、言い訳をして置きます。

 もう一つ、蛇足です。先ほど、パワーハラスメントと書きましたが、このハラスメントも加減により、薬にも毒にもなる事を、知っておいた方が良いと思っています。

 私は、小学校・中学校・高校と先生から殴られなかったことは、ありません。空手を習いに行っても殴られました。耳が1ヵ月聞こえなくなった事もありました。

 中学校の時に通知簿に、素行が悪い、と書かれた時には、流石に「オイオイ」と思った事がありましたが、先生や先輩を恨んだこともありませんし、それで性格が暗くなったこともありません。まして、性格が歪んでいるとも思っていません。
 これは、人がどう思っているかは、別として。
 そうそう、そう言えば大学に入ってからも、一年生の時に、毎回遅刻をするので、ドイツ語の先生に、指示棒で、お尻を殴られた事を思い出しました。
 今考えると、そりゃあ、怒りますよ。授業中に前から堂々と、書生下駄を履いて、ガランガランと学生服を着た学生が入ってくれば。
 しかも当時書生下駄に鉄板を貼っていました。自分でも廊下を歩くとうるさいと言う自覚がありましたから、教室の扉を開ける前から、来たな、と思われていたのでしょう。
 この先生は、零点の私に単位をくれました。いわく、お前は面白い。答案用紙に名前だけは書いておけ! 良い時代だったと思います。

 なぜこんな事を書くかと言いますと、ある程度の負荷が、人間を成長させてくれるのではないかと思っているからです。
 食物と人間とは違うと思いますが、食物もある程度、自然への抵抗によって、おいしくなると聞いたことがあります。もちろん、おいしく食べるのは、人間の勝手な思い込みで、食物には関係ないかも知れません。

 すくすく育つのは、見ていて安心ですが、すくすくだけでは、育たない部分もあるのでは、無いでしょうか。「涙の数だけ強くなれるよ」と歌っている歌詞もあるじゃないですか。

【参考文献】
・呉智英(2003-2004)『現代人の論語』 株式会社文藝春秋.
・鈴木勤(1984)『グラフィック版論語』 株式会社世界文化社.

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